ロシアが北方四島を返還できなくなった「本当の事情」
2019年12月11日 公開 2024年12月16日 更新
5月9日の戦勝記念パレードで、モスクワ中心部を進むRS-24ヤルス移動式ICBM。沿道には多くの観衆が詰めかける(2015年撮影:著者提供)
2018年9月にロシア極東のウラジオストクで開催された「東方経済フォーラム」で、各国の首脳が登壇する全体会合の席上、プーチン大統領が突如として「年内にいかなる前提条件も設けずに平和条約を結ぼう」との提案を安倍首相に行い、大きな注目を集めた。
本稿では、現在まで続く北方領土問題をめぐる日ソ・日露間交渉の歴史を紐解きつつ、プーチン大統領の発言から、日本という国をロシアが安全保障上どのように捉えているか紹介する。
※本稿は小泉悠著『「帝国」ロシアの地政学』(東京堂出版刊)の内容を一部抜粋・編集したものです
※なお、小泉氏は同作にて「第41回サントリー学芸賞〔社会・風俗部門〕」を受賞しました
北方領土問題の始まり
第二次世界大戦末期、日ソ中立条約を一方的に破棄して対日参戦したソ連軍は、日本によるポツダム宣言受諾後も戦闘を続け、1945年9月1日までに国後、択捉、色丹の3島を占拠した。
日本政府が米戦艦ミズーリ艦上で降伏文書に調印した後もソ連軍の侵攻は続き、9月5日には歯舞群島のすべてがソ連軍の占領下となった。
現在まで続く、北方領土問題の始まりである。
戦後の1951年に締結されたサンフランシスコ講和条約第2条c項では、「日本国は、千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権限及び請求権を放棄する」と定められたことから、一見すると日本は北方四島を放棄してソ連の占領を追認したように見えなくもない。
ただし、条約の文言には「誰に対して」放棄されるのかは明示されなかった。当初、ソ連側はc項に「ソ連の完全な主権」という文言を入れるように主張したが容れられず、結局、条約に調印しなかったためである。
1956年に結ばれた日ソ共同宣言第9条では、「日ソが平和条約を締結したのちに、歯舞群島と色丹島を引き渡す」ことが定められた。
歯舞群島と色丹島は北海道の一部であり、放棄された千島列島には最初から入っていないという日本の立場を難交渉の末にソ連に認めさせた結果であるが、残る国後島と択捉島の扱いについては玉虫色の決着となった。
共同宣言本文からは「領土問題を含む平和条約」という文言が削られる一方、日本の松本全権とソ連のグロムイコ首相が「領土問題を含む平和条約締結に関する交渉を継続することに同意する」とした書簡(いわゆる「松本・グロムイコ書簡」)を公表したのである。
しかし、日ソの平和条約交渉はその後、停滞の時代に入る。1960年の日米安保条約改定を受けてソ連は対日姿勢を硬化させ、領土問題は解決済みという立場をとるようになった。
冷戦後の日露が積み重ねてきた「前提条件」
事態が大きく動くのは、ソ連最末期の1991年になってからであった。同年4月に訪日したゴルバチョフ大統領と日本の海部首相による日ソ共同声明がそれであり、この中では北方四島の名前を具体的に列挙した上で、「領土確定の問題を含む日本とソ連との間の平和条約の作成と締結に関する諸問題について詳細かつ徹底的な話し合いを行った」ことが明記された。
北方四島が帰属の定まらない係争地であることを、ソ連が30年ぶりに認めた画期と言える。
この方針はソ連崩壊後のロシア政府にも引き継がれ、エリツィン大統領と細川首相による1993年の東京宣言では、やはり北方四島の名前を具体的に挙げて、これらの島々が日露間の係争地であることが再確認された。
エリツィン大統領と橋本首相が合意した1997年のクラスノヤルスク宣言や、2001年にプーチン大統領と森首相が発出したイルクーツク声明でも、東京宣言は平和条約交渉の基礎であると明記されている。
つまり、北方領土はまだ日露いずれのものとも定まらない係争地域であるというのが、冷戦後の日露が積み重ねてきた「前提条件」であった。
このような経緯を踏まえるならば、プーチン大統領のウラジオストク発言は日本側として到底看過できるものではない。
四島の帰属を確定するという「前提条件」を飛ばして平和条約に調印することになれば、日露の戦後処理はそこまでとなってしまい、領土問題をどのような形態・条件・時期において処理するのかはロシア側の胸三寸ということになりかねないためである。
実際、プーチン大統領の発言を受けた安倍首相はその場では苦笑いを浮かべるばかりで返答を避けたが、その後、一対一の場では提案を拒否する旨を明言したと伝えられている。