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弱いものから死んでいく地獄の鉄路…ナチス・ドイツの「死への列車」

鴋澤歩(ばんざわあゆむ:大阪大学経済学研究科教授)

2020年06月23日 公開 2022年02月22日 更新

 

1日に2万本を運行しているドイツ国鉄にとって、取るに足らない本数だった

デポルタツィオーンは、親衛隊ことSS(全国指導者ヒムラー)がライヒスバーンに委託し、三等車運賃を移送規模に応じて支払う契約を結ぶ形でおこなわれた。ライヒ、西欧、南欧からの絶滅収容所への死の移送は、東欧での虐殺と異なり、分業による行政的な手続きという外見を崩さなかったとされる。

SS-国家保安部に七局ある国家保安部各局(RSHA)中の第Ⅳ局が、国家秘密警察ことゲスターポ(ゲシュタポ)であった。そのB4課すなわち「ユダヤ人課」の課長がアドルフ・アイヒマン。戦後、イスラエルによって逮捕され、「アイヒマン裁判」で世界の注視を受けることになるSS中佐である。

その部下であるa係長ロルフ・ギュンターSS少佐が輸送問題の課内の責任者であり、移送計画ごとにガイドラインを作成、各地保安警察とのやりとりをおこなった。

各地からは移送人数とともに必要な列車本数、出発駅、期日が上がってくるので、ギュンターのa係がこれをまとめ、ライヒスバーンへの発注をおこなう。

a係のフランツ・ノヴァクSS大尉はここからライヒスバーン担当者との詳細をつめる協議を定期的におこない、発着駅決定と業務時刻表作成をおこなう。

ライヒスバーンは1日に2万本の列車を運行していた。1日10本を走るくらいのデポルタツィオーン列車は、経営の観点からも幹部たちなどが眼中に入れなくてもよい存在であったといえる。

デポルタツィオーンがユダヤ人にいかなる惨苦を与えているのかを考慮にのぼらせる人間は少なかった。大量の悲惨や死はすぐ身近にありすぎたので、他者の運命への同情や共感の能力は鈍麻せざるを得なかったこともあるだろう。

 

責め苦を与え続けた「死への特別列車」

「死への特別列車」の編成も1回に運んだ人数もかなりばらつきがあるが、1列車で10輌程度の貨車におよそ1,000人のユダヤ人を詰めこんだ場合が多く、これをモデル・ケースとできる。明り取りの窓には鉄条網がまかれ、出入り口には外から鍵がかけられた。

車内で一人が占有できる面積を単純計算すると、信じがたい数字が出る。長時間スシヅメの貨車内には、排便用のバケツが置かれているだけで、それ以外の設備は、暖房はおろか座席すらない。

東部の交通事情は早くから混乱渋滞し、そのなかで軍事輸送が優先されたから、デポルタツィオーンの列車は走行を停止し、しばしば長い待機をおこなった。

その時間だけ、「乗客」(とライヒスバーンはなお呼称した)の苦しみは増した。ライヒ内の駅で停車時にはドイツ赤十字の人びとが、護送監視役のSSにコーヒーやスープをふるまったが、渇きの救いを求めて明り取りから手を突き出す人々に、与えられる水はなかった。

SSによる監視は手薄気味だったので、闇夜にまぎれた「飛び降り(ジャンパー)」とよばれる決死の脱出者はたしかにいた。少なからぬジャンパーが「常習犯」すなわち複数回の脱出経験者であった、というのはその不屈の意志に驚くべきだが、「飛び降り」が当時のナチス・ドイツでは完全な逃亡成功にはならなかったという意味でもあろう。

移送中に赤ん坊をはじめ弱い者から死んでいったが、ときに三昼夜におよぶ移送の責め苦に耐えて生き残ったとしても、収容所での労働不可能とおもわれた老人、子供、多くの女性には、運ばれた先に、選別とすみやかな虐殺が待っていた。

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自国民までも攻撃対象としてしまった"鉄道"という装置

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