初代・天下人は三好長慶だった!? 放送再開の『麒麟がくる』のこれからを楽しむポイント
2020年09月05日 公開 2022年06月30日 更新
《全国にその名を轟かせる「名古屋おもてなし武将隊」。名古屋城に詰め、観光客をもてなす武将と足軽の10人組である。2009年11月、名古屋開府400年のPR大使として名古屋にゆかりの6人の武将と4人の足軽で名古屋おもてなし武将隊が結成、すでに10年以上にわたり活躍を続けている。
そのうちの一人、前田慶次氏は名古屋城検定に検定過去最高点で合格し同検定の名誉顧問を務め、日本城郭検定にも合格するなど歴史への造詣も深い。
前田慶次氏が自身のYouTubeチャンネル「前田慶次5分で戦国時代チャンネル」にてNHK大河ドラマ『麒麟がくる』を徹底解説している。本稿ではその一部を紹介する》
※本稿はYouTubeチャンネル「前田慶次5分で戦国時代チャンネル」にて配信された内容を再構成したものです
空白の4年に起きた、無視できない史実(1560-1564年)
『麒麟がくる』の待ちに待った再開。儂も歓喜致したが、皆はどうじゃ?開幕の音色を聴いたときには、思わず武者震いであったぞ。
第22回「京よりの使者」は、前回21回からなんと4年後! 月日が随分と経ち申した。ある意味、2ヶ月の休戦(編注:放送休止)があったが故に、この4年後いう演出がしっくり来てしまう。
元より物語の構成上では考えられていたと心得るが、休戦を予想しておったかのような流れに、思わずゾッと致したわ。
本題に戻ろう。
桶狭間の戦いの1560年から64年迄の出来事は、かなり重要な4年間と言える。
1560年桶狭間の戦いを経て、家康が松平の土地である三河岡崎城を奪回! 前回の放送を観ておれば、その気配は感じたであろう?
他にも、此度の放送にもチラッと登場した「多門山城」の築城開始。松永久秀の居城にして「天守閣」の先駆けとも言われ、城郭史において重要な城であり、かつ大和国の軍事拠点として先進的な城郭であったと聞く。
当時としては珍しい分厚い壁に石垣利用が見られ、戦に強い城郭である面と、文化人松永の居城に相応しく有名絵師である「狩野派」の絵画、茶室や格式のある天井など、西日本一の城郭との呼び声も高い。
62年はドラマに是非描いて欲しかったあの出来事があった。清州同盟が締結。織田信長と徳川家康が結んだ、戦国時代では考えられぬ奇跡の同盟。信長が本能寺で討たれるまで続き、互いに背後を守るべく契りを交わした。
戦国時代の同盟とは名ばかりのものが殆どであるなか、後の天下人に上り詰め、幼少時に共に時を過ごした二人の同盟。ドラマでは竹千代時代に両者が近づく演出があった故に、改めてこの場面が描かれると期待しておったが、至極残念! 皆は、想像して楽しんでちょうよ。
63年、信長が小牧山城を築城。今川を倒してから、美濃攻めにすぐさま取り掛かった。難航する美濃攻めの為、攻略の拠点として小牧山に城に築いた。後に築城する安土城の如く、大手門は道を広げ屈折のない城内となっておる。城造りの先駆けが此処にも垣間見える。
同年に信長は京の御所にて、相撲を開催。京での交友関係を広げようとしておったのが伺える。空白の4年で最も重要と言えるが、三好長慶の主君にして下剋上をされた管領、細川晴元が死去している。
そして、放送再開された第22回の1564年には、上杉と武田の名合戦である川中島の戦いが勃発!
以上、この4年間に起きた重要なものを紹介した。ドラマでは描かれておらぬが、これを踏まえた上で視聴すると、よりいっそう『麒麟がくる』が楽しめるぞ!
改元問題…元号は将軍と朝廷で取り決める
ドラマの冒頭で、足利義輝と近衛前久が話し合っておった「改元」。
元号を変える折は、現世の者は帝の即位が基本と捉えておると心得るが、儂らの時代はそれ以外の理由でも改元をした。
室町時代の頃は、将軍と朝廷で協議して改元を取り決める。しかし、永禄は将軍義輝が朽木に潜んでおった間に、何の相談もなく改元した。
改元の理由は帝、正親町天皇の即位。この改元に強く割って入ったのが三好長慶。三好と朝廷が相談して永禄に決めてしまった。
義輝は意地で、前の年号である弘治を使い続け、永禄を使う人間と世の中は二分した。
されど、弘治を使うことは、即ち朝廷を敵としておると判断される。分が悪いのは圧倒的に義輝側。将軍の権限を、三好が使用している事で、庶民ですら「今の世は三好が動かしている」と思ってしまう。
因みに、この後に改元を利用して、天下人誕生を世に発信したのが織田信長である。