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生き方

「人生にやりがいを見出せない人たち」が誤解してること

加藤諦三(早稲田大学名誉教授、元ハーヴァード大学ライシャワー研究所客員研究員)

2021年08月18日 公開 2023年07月26日 更新

何をするにも気力が起きず、「馬鹿らしい」といって人生というものを悲観的に歩む人がいる。こうした人は“食わず嫌い”なのである。食べてみないと美味しいかどうかわからないのに、食べる前からまずいと決めてしまう人である。

作家で早稲田大学名誉教授の加藤諦三氏は、著書『行動してみることで人生は開ける』のなかで次のように語る。

食わず嫌いの強情な人は、自分をとりまく世界から自分を分離してしまっている。そのため、周囲と対立し、融通が利かない。彼らが世界に向かって自分を開くには、どんなことでも、とにかく始めてみることである。

人生に“やりがい”を見つけられない人に、欠けている意識は何だろうか。具体的に解説する。

※本稿は、加藤諦三 著『行動してみることで人生は開ける』(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

“面白さ”や“やり甲斐”はやった後についてくる

今、人々は、何かひとつ欠けたような、心の空しさを味わいながら生きているのではなかろうか。

自分の行動のどれをとってみても、明確な目的を欠いている。大学に行く学生も、大学で何を学ぶべきかをハッキリとしてから大学に行くわけではない。ただ何となく漠然として大学に行く。

皆が行くから自分も行く、兄さんが行ったから僕も行く、友達も行くから自分も行く。そして大学に何の目的もなしにやってくる。また大学に何も期待しないでやってくる。ただ大学の授業に単位だけを期待してやってくる。

それは大学にくる学生ばかりではないだろう。会社に行く人も同じだろうし、結婚する人も同じであろう。

何となく、ただ何となく、風が吹くように、水が流れるように何となく暮している。時々は生き甲斐がほしいと思う。しかし何かを新しくはじめる気力もなく、今日も明日も何となく過ぎていく。

生きているというよりも、何か水の中をただよっているような生き方をして、人々は暮している。生活ができればそれでいい、という無気力な生き方。

もちろん、何か面白いことがあればやりたい、と思っている。しかし人間にとって、やる前から面白い、などというものは、はじめてみても永続きするものではない。

そんなものは安易なものに決まっているから、すぐ退屈してしまう。人間の興味や関心ややり甲斐や、そういったものは、何かをやっているうちに出てくるものであって、何かをやる前から感じるものではない。

テニスが面白いのはテニスをはじめて、テニスがわかり出してからであろう。テニスをやりはじめてある時期、とにかく面白いという時がある。それは、ラケットをこう振ると、こうなって、ああなって、こういう球が出るとわかってきた時であろう。

ゴルフだって同じである。面白いのは九ホールを50をきるくらいの時だという。つまりだんだんと球の打ち方がわかってきた時である。なるほど、ここでヒザをつけて、ここでクラブを振り抜いて、こういうフィニッシュになると、球はまっすぐ飛ぶ、などとわかり出すと面白い。

それはスポーツばかりではない。英会話だって同じである。何だかアメリカ人のいっていることがサッパリわからない、という時、会話の勉強は苦痛である。

ところが、アメリカ人の話すことが少しわかり出すと、もっとわかりたいと思い、急に面白くなる。それに自分の考えていることが少しでも英語で表現できるようになると、急に英語をしゃべることに興味が出てくる。

 

理屈は何かをやった後で

食わず嫌いな人は、とにかく何でもいいから理屈をいわずに食べてみることである。

自己の世界と共同世界の裂け目を埋めるものは行動しかない。ちょっと激しいいい方をすれば主張を捨てることである。

つまり、今までの主張というのは自分の存在の可能性の範囲を狭めていたものであり、その主張は単なる自己満足にしかすぎないからである。

たとえば、上役と酒を飲むのなどゴマスリで嫌だ、俺はあんな卑劣なことはできない、あそこまでつきあいをよくして出世したいかねえ、山登りは夜行列車が混むし、食事が不潔で嫌だ、などといろいろと理屈はつくが、とにかく一切のこうした〝自分の主張〟を捨てることである。

というのは、これらの主張の内容が正しいとしても、その内容を主張している本人の動機は全然ちがっているからである。酒をくだらないと主張するのは、本当は自分がつきあいが悪くて出世できないからである。

自分の主張の内容が正しいということと、その主張をする動機の正しさとは関係がない。主張の内容がもし正しいとしても、それを主張する動機は、自分を他人と違ってより知的に見せたい、あるいは自分にお金がないことを弁護したい、ということかもしれない。

共同世界と自己世界との間に裂け目ができてしまった人というのは、その主張の内容が正しいとしても、その動機は功名心であったり、恐怖であったり、臆病であったりする。

無気力な人間、強情な人間、ヒステリーの人間、虚栄心の強い人間、それらの人間に必要なことは理屈でなくて行動である。

もし何かをしようとしても止める理屈を見つけようとすればいくらでも見つかる。そしてその理屈がどんなに正しくても、自らの存在は狭められ、圧迫され、空虚化されていく。

たとえば3カ月なら3カ月と期間をきめて、その期間は一切の理屈を自分に禁止して、与えられた役割を引き受けてみることも必要であろう。理屈は自己の世界と共同世界との裂け目が埋まってからでよい。

【著者紹介】加藤諦三(かとう・たいぞう)
1938年、東京生まれ。東京大学教養学部教養学科を経て、同大学院社会学研究科修士課程を修了。1973年以来、度々、ハーヴァード大学研究員を務める。現在、早稲田大学名誉教授、日本精神衛生学会顧問、ニッポン放送系列ラジオ番組「テレフォン人生相談」は半世紀ものあいだレギュラーパーソナリティを務める。

 

著者紹介

加藤諦三(かとう・たいぞう)

早稲田大学名誉教授、元ハーヴァード大学ライシャワー研究所客員研究員

1938年、東京生まれ。東京大学教養学部教養学科を経て、同大学院社会学研究科修士課程を修了。1973年以来、度々、ハーヴァード大学研究員を務める。現在、早稲田大学名誉教授、日本精神衛生学会顧問、ニッポン放送系列ラジオ番組「テレフォン人生相談」は半世紀ものあいだレギュラーパーソナリティを務める。

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