ご遺骨収集で抱いた「日本人としての誇り」
2010年08月23日 公開 2022年11月02日 更新
日本政府は消極的な姿勢ゆえ 民間団体で取り組むしかない
太平洋戦争で亡くなった日本人兵士のご遺骨の大半が、いまだ海外に放置されていることを、どれだけの日本人が知っているだろうか。大戦中、本土以外で亡くなった方は約240万人、そのうち約半数は、いまだ帰還を果たしていない。
国のために命をなくされた方のご遺骨収集は、本来ならば国の責任で行なうべき事業である。しかし戦後の日本は戦争をタブー視する傾向から、政府も長らく遺骨収集について正面から向き合うことを避けてきた。その結果、国民のあいだでも戦争の記憶が薄れ、遺骨収集活動も存続の危機に瀕している。
私が遺骨収集活動に携わるようになったのは約5年前。なぜ私がこの活動を始めたのか。まずその経緯からお話ししたい。
私の祖父は、第二次大戦でビルマのインパール作戦に参謀(第33師団)として参加した。生還を果たした祖父は、私に会うたびに、当時の話を語ったものだ。
「夜、洞窟のなかで仲間の兵士が泣いている。『どうした?』とみると、彼の足がウジだらけだ。『ウジが自分の足の肉をかじっている音が聞こえる……』。足は化膿し、黄色い膿が垂れていた。彼は衰弱し、3日後に死んだ」
「当時、体力の限界にきた自分の部下たちを、竹で叩いて歩かせた。竹が割れるほど強く、何人も叩いた。なぜなら、歩けなくなった兵士には、手榴弾をもたせなければいけない。自分のかわいい部下にそんなことできようか。だから心を鬼にして、無理やりにでも歩かせるんだ。それでも、やむをえず手榴弾を渡すこともあった」
「あの作戦は生き地獄だった。餓死やマラリアで、みな目の前でバタバタと死んでいった。参謀だった私には何百人という部下がいたが、その8割以上が死んだ。いまだに彼らの骨はあの場所に放置されている――」
話を聞きながら、人間の「死」とはたいへんなことなのだ、と感じずにはいられなかった。
そんな私は5年前、8000mを超すヒマラヤ登頂中、自身も「死」を覚悟する事態に陥った。何日も猛吹雪が続き、真っ暗なテントに閉じ込められ、ついに酸素も尽きようとしていた。そのとき私は、心の底から思った。
「日本に帰りたい……! オレもまもなくテントごと吹き飛ばされて、雪のなかに埋もれてしまうだろう。せめて、だれかがオレの遺体を見つけて日本へ連れて帰ってくれないものか……」
このとき、ふいに祖父の話を思い出し、「戦争で亡くなっていった方も、こんな思いで逝ったのだろうか。彼らもひと目、家族に会いたかっただろうな……」と考えた。そして私は、もし生きて帰ることができたら、必ず戦没者の遺骨収集に取り組もう、と心に決めたのだった。
日本人のなかには、「遺体は丁重に扱う」という哲学があると思う。たとえば私の経験でいうと、エベレスト登頂において仲間を失う事態になったとき、8000mを超す山での遺体収容はかなり困難で、欧米人は遺体を放ったらかしにする。彼らにとっては「あれはただのボディ」、つまりモノにすぎないというわけだ。しかし日本隊だけはいつも、遺体収容に最大限の努力をはらう。
ところが不思議なことに、戦没者の遺骨収集となると、この姿勢が逆転する。アメリカは現在、第二次世界大戦、朝鮮戦争などで行方不明となっている兵士の捜索、遺骨収集に年間約55億円もの予算を充てている。55億円というと、戦後から今日に至るまで日本国が遺骨収集にかけた総額だ(!)。さらにアメリカは、硫黄島にあるたった一体しか残ってない米兵の遺骨を、いまだ探索している。
一方、日本政府の態度は非常に冷たい。遺骨収集は国家事業としては行なわれていないし、予算もいま述べたとおり、アメリカと比べものにならない。管轄のトップである歴代厚生(厚生労働)大臣も、言葉では「遺骨収集は国の責任できちんと取り組むべき」というにもかかわらず、アクションはなにも起こさない。
自民党政権末期になって、ようやく心ある代議士の方々から議員立法を提出しようという動きが出てきた。だがそれも、民主党に政権交代してからは頓挫している。民主党はどちらかというと、遺骨収集には無関心。2009年10月、鳩山由紀夫首相(当時)に、遺骨収集に対する政府の姿勢を問う公開質問状を提出したが、その返答も、非常に無味乾燥なものだった。
長らく続く政府の消極的な姿勢ゆえ、遺骨収集は民間団体で取り組むしかなく、私も力になりたいと思ったのだ。