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日本各地に残された「徐福伝説」…中国の文献から読み解くその“正体”とは?

関裕二(歴史作家)

2021年07月27日 公開 2024年12月16日 更新


始皇帝陵(中国陝西省西安)

日本各地で語り継がれる徐福伝説――。いったい徐福とは何者であり、なぜ日本を目指したのか? それを探っていくと、始皇帝の秦の圧政に苦しんだ人びとの姿が見えてくる。そして、海を越えた彼らが日本にもたらした恩恵はけっして少なくない。

※本稿は、関裕二 著『海洋の日本古代史』(PHP新書)を一部抜粋・編集したものです。

 

徐福はなぜ日本に向かったのか

騎馬民族日本征服説のように派手ではないが、紀元前3世紀に中国から大勢を連れて日本に渡って来て、縄文時代から弥生時代への大きな転換期を作り上げたのではないかと疑われている人物がいる。それが、秦(しん)の斉(せい・山東省)の方士(ほうし・神仙の術を行なう人)、徐福(じょふく)である。

問題は、徐福は本当に日本にやってきたのか。やってきたのなら王になって、日本列島を支配したのか、である。徐福は渡来人の意味を考える上で無視できない存在なのだ。

司馬遷『史記』に、徐福が登場する(「秦始皇本紀」)。

徐福は始皇帝に、「海中(中国から見て東方)に三神山(蓬萊〔ほうらい〕・方丈〔ほうじょう〕・瀛州〔えいしゅう〕)があって、不老長寿の薬(霊薬)があります」と具申した。すると始皇帝は、徐福に財宝と五穀(イネ含む)の種、農耕機具や技術者、童男童女を与え、僊人(せんにん=仙人)と僊人のもつ霊薬を見つけるように命じた。

こうして、総勢数千人に及ぶ人びとが、大海原に漕ぎ出したのだ。そして徐福は、広い平野と沼地のある土地にたどり着き、王となるも、帰ってこなかった。

 

日本で語り継がれた徐福伝説

一方、日本各地にも徐福伝説が散らばっている。もっとも有名な場所は、熊野の新宮(和歌山県新宮市)だろう。三神山の中の「蓬萊」が、この地なのだという。

熊野川の河口部に、徐福上陸記念碑が建てられている。ここで徐福は暮らしたと伝わり、JR新宮駅に近い場所には徐福公園も整備されている。ここは、元文元年(1736)に、墓が建てられた場所なのだ。

ちなみに、三重県側の熊野市には、富士山とよく似た蓬萊山があって、脇に徐福の宮がある。墓もある。一帯の地名が「秦住(はたす)」「秦栖(はたす)」と呼ばれていたのは、ここに徐福が住んでいたからだという。

じつに怪しげな伝承だが、無視できない。たとえば、秦の時代に鋳造された大型の半両銭(はんりょうせん・貨幣)が多数発見されていて、中国貨幣の専門家も、本物と認めたという。

さらに、1984年4月に、中国の『光明日報』(文化情報誌)に徐福の故郷が見つかったと論文が発表された( 羅其湘・らきしょう))。それが「徐福村(徐阜村・じょふむら)」で、「徐福の末裔」を名乗る人びとが見つかっている。

「秦の始皇帝の時代に童男童女五百人を引き連れ、僊人と仙薬を求めて東方の桃源郷・日本に向けて旅立った方士・徐福の故郷」と言い伝えられていたというのである。

伝承は、まだ続いていく。横暴で多くの人を殺してきた始皇帝は、全国を支配し終えると、巡行し、不老不死の薬を献上するように命じた。しかし、薬が効きかないとわかると、献上した者を斬り殺した。

徐福は医術を生業にもしていて、不老不死の薬は存在しないと思い、皇帝を欺き、大海原に漕ぎ出したのだという(『徐福 弥生の虹桟』羅其湘・飯野孝宥共著 東京書籍)。

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