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日本各地に残された「徐福伝説」…中国の文献から読み解くその“正体”とは?

関裕二(歴史作家)

2021年07月27日 公開 2022年06月23日 更新

 

豊前国にあった秦王国とは?

徐福は実在したと考えてよいだろう。ならば、日本にどのような影響を与えたのだろう。

弥生時代の始まりは紀元前3世紀と考えられていたから、徐福の渡来によって日本に稲作がもたらされたのではないかと考えられていた。たとえば飯野孝宥は、徐福は日本にやってきて、焼畑と漁撈と採集の経済を一変させたと指摘している。

灌漑や稲作農業の技術と知識、神仙思想をもちこんだといい、古代日本の発展期に多大な貢献と影響を及ぼしたという。その上で、「この渡来人の集団は、秦の強大な圧迫から逃れて新天地を理想の楽土に求め、将来の夢をこの桃源郷に託したのである」(前掲書)と、指摘している。

しかし、弥生時代の始まりは、紀元前3世紀ではなく紀元前5世紀ごろではないかと疑われはじめ、さらに、炭素14年代法(放射性炭素C14の半減期が約5700年という性格を利用して遺物の実年代を測る方法)が精度を高め、弥生時代の始まりを測定したところ、紀元前10世紀後半だった可能性が高まった。そのため、徐福の渡来によって弥生時代が始まったという仮説は、ほぼ成立しないことになってしまったのだ。

ただ、だからといって徐福を軽視してよいわけではない。

たとえば、『隋書』倭国伝に、次の記事がある。

大業(たいぎょう)4年(推古16年[608])、裴世清(はいせいせい)が隋から日本にさし向けられたが、その時、竹斯(つくし)国(筑紫))の東に「秦王国(しんおうこく)」があって、住民は「華夏(かか)に同じ(中国人に似ていて)」でこれが「夷洲(中国から見て東の野蛮人の住む土地)」と思われるが、よくわからない。

竹斯国から東は、みな倭に属している。おそらく、豊前国(福岡県東部と大分県北部)のことと思われる。具体的には、山国川(やまくにがわ)の左岸(北側)のあたりだ。

漠然とした記事だが、ここは重要だ。秦王国は「秦の国」から来た人びとの国だろう。

 

徐福と秦氏の接点

ここで、徐福と秦(はた)氏がつながってくる。秦氏は新羅系の渡来人集団だが、新羅と中国には、接点がある。

三世紀の『魏志』に、辰韓(しんかん・のちの新羅)にまつわる気になる記事が載る。

「その言語は、馬韓(ばかん・朝鮮半島南部の中心勢力。のちに騎馬民族[ 扶余・ふよ]に支配されて百済となる)と同じではない。むしろ、秦人(中国の人)に似ている」というのだ。

また、辰韓の人々は秦の重税や苦役から逃れ、馬韓の東側を割いて住まわせられた。秦の人に似ているから「秦韓(しんかん・辰韓)」とも呼ばれていたという。

さらに時代は下って、『北史(ほくし)』や『梁書(りょうしょ)』に、新羅にまつわる記事がある。やはり、言葉も文化も中国人に似ていて、そもそも新羅に住んでいたのは「秦人」であり、だから「秦韓(辰韓)」といったのだと指摘している。

すでに1930年代に、徐福が最初日本ではなく、朝鮮半島にたどり着いていたのではないかと、王輯五(おうしょうご)は推理している。半島東南部の辰(秦)韓がそれで、そこから分かれた集団が日本に渡り、出雲にたどり着いたというのである(『中国日本交通史 中国文化史叢書』臺灣商務印書館)。スサノヲが新羅からやってきた神話から、この解釈が生まれたのだろう。

ただ徐福は、スサノオと関係が深い出雲よりも九州北東部とつながりが強い。秦氏がヒントとなる。『正倉院文書』の大宝2年(702)に残された戸籍から、8世紀初頭の豊前国の中心部に、秦氏が密集していたことがわかる。8割から9割が秦氏系だった土地が、いくつもあったのだ。

 

秦の圧政から逃れた人々

徐福は秦の始皇帝の圧政から逃れるために、不老不死の霊薬を求めるという名目で東方に船出したが、秦の重税から逃れた秦韓の人びとと、よく似た境遇であったことがわかる。

そして、秦氏も「もともと中国から朝鮮半島にやってきた。秦の国の人」と、自称している。この経歴、本当だったのではないかと思わせる考古学的な物証がある。徐福伝説は、秦氏と密接にかかわっている可能性が高い。

秦氏は畿内にも集住し、特に山城(山背)の灌漑事業を手がけ、土地を開墾したことでも知られる。山城の秦氏が手がけた土木工事でもっとも有名なのは、京都嵐山の渡月橋付近の葛野大堰(かどのおおい)だ。

徐福が先進の技術を日本列島にもたらしたことは間違いなく、「秦人と自称した」その姿は秦氏と重なって見える。

とはいっても、秦氏の渡来は、3世紀(あるいは4世紀)のヤマト建国後のことで、ここに時間の差が生まれる。秦氏は、徐福と同じように、秦の始皇帝の圧政に苦しみ、朝鮮半島に逃れた。しかし、そこでも安住の地を見つけることができずに、のちの時代に日本列島に渡来し、北東九州の地に定住したのではなかったか。

 

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