世の中では働き方の多様化が進められているが、一方で仕事にやりがいを感じられず、転職を繰り返す人も多いという。
「われわれは誇りがなければ、仕事もいいかげんになるし、意欲も低下する。誇りがあってこそ、いい仕事をやろうという意欲も出るし、自分のやっている仕事の内容を充実させようという気にもなる」こう話すのは、早稲田大学名誉教授の加藤諦三氏。
仕事ができる人と、そうでない人とに分かれる分岐点とは一体…。加藤氏に「できるビジネスマン」が大事にしている考え方について聞いた。
※本稿は、加藤諦三著『安心感 自己不安を「くつろぎ」に変える心理学』(PHP文庫)を一部抜粋・編集したものです。
できる社会人は、誇りと謙虚さを持つ
おそらく社会人になって最もたいせつな心がけは、常に誇りと謙虚さを持っていることであろう。誇りと謙虚さを同時に持つということは、なかなかむずかしい。
われわれは誇りがなければ、仕事もいいかげんになるし、意欲も低下する。誇りがあってこそ、いい仕事をやろうという意欲も出るし、自分のやっている仕事の内容を充実させようという気にもなる。自分自身に対する誇りは、意欲にとって欠かせないものであろう。
しかし、誇りのむずかしさは、それが傲慢とどう違うかということである。この2つを区別するということがむずかしいということである。
誇りと傲慢さは、あきらかに違う。誇りと優越感もまったく違う。
優越感を持つ人は、よくうそをつくことからもわかるとおり、自信のない人である。優越感や傲慢は、要するに虚勢を張っているにすぎないのである。
誇りを持っている人は、自分にも他人にも正直である。一方、謙虚さが必要であるということも、社会人としては欠かせないことである。
伸びる人間は依存心を克服している
どんなにえらくなっても、どんなに社会的に地位が高くなっても、一個の人間としての謙虚さを失わず、他人に接する人は、仲間も増え、人間的にも社会的にも伸びるケースが多い。
あらゆる点で成長する人は、他人に対してお茶をくむことを「お茶くみ」などと軽蔑したりすることは、決してない人たちである。
他人が名刺を出したとき、ふんぞり返って名刺を受け取るようなことの決してない人たちである。誇りも謙虚さも、充実した人生をおくるためには欠かすことのできないものである。
しかし、誇りが傲慢さに、謙虚さが卑屈に変わるということはあり得る。それは、どうしてであろうか。
ある人に誇りを持てといういい方をすると、傲慢になってしまうし、ある人に謙虚であれというと、卑屈になってしまったりする。
人間の依存心は、そのなかに何ほどかの敵意を含んでいるものである。情緒的に成熟しない人間は、この依存心と敵意のなかで生きている。
実は"誇りを持て"といったとき、そのことばが敵意と結びついて、傲慢さと理解されてしまうことがよくある。
また、"謙虚であれ"ということをいわれると、心に葛藤を持つ人は、それが依存心と結びついて卑屈さになってしまうのである。
自分の心が、依存心と攻撃心との葛藤のなかにある人は、誇りというものがどのようなものであるかが理解できない。したがって、"誇りを持て"ということばが理解できず、攻撃心を基礎にした傲慢さになってしまうのである。
また、依存心と攻撃心との葛藤を持つものは、"謙虚であれ"ということばの意味が理解できず、依存心をもとにして、卑屈になってしまうのである。
誇りと謙虚さを兼ねそなえるためには、どうしても人間のある情緒的な成熟が必要とされる。情緒的に成熟した人間は、誇りを持ちながらも謙虚であり、謙虚でありながらも誇りを失っていない。
依存心を克服できず、依存心と攻撃心との葛藤に悩んでいる情緒未成熟者は、傲慢に傾くか、卑屈になるかの二社者の間を激しく揺れ動くのである。
傲慢と卑屈は心理的に見れば、表裏の関係であろう。あらわれる現象としては正反対である。そして、この正反対のものが止揚されたところに出てくるのは、誇りと謙虚さなのである。
傲慢と卑屈さが、表裏一体であるように、誇りと謙虚さも、表裏一体のものである。