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生き方

「夫が何もわかってくれない」と嘆く妻がとった意外な解決策

片田智也(産業カウンセラー、キャリアコンサルタント)

2022年07月05日 公開

思い切って相談したのにわかってもらえなくて傷ついたり、話し合いたいだけなのにいつも喧嘩になってしまうことはありませんか?傷つかないための相談相手の選び方や、相手と円満に話し合うためのポイントを、産業カウンセラー片田智也氏が解説ます。

※本稿は、片田智也 著『「メンタル弱い」が一瞬で変わる本 何をしてもダメだった心が強くなる習慣』(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

「話を聞いてもらう相手」は誠実な人を選ぼう

「悩みを聞いてもらってスッキリした!」
「わかってもらえるだけで気が楽になる」
「気持ちを受け止めてもらえてよかった」

このように感じた経験はあなたにもあるかと思います。カウンセラーという仕事柄、こう言っていただけることはよくありますし、私自身、気持ちを理解してもらえると安心を感じます。

しかし、「話を聞いてもらう」のは、ギャンブルのようなもの。わかってもらえる、受け止めてもらえるかどうかは自分自身の力量ではなく、運任せではないにせよ、ほとんど相手次第です。

「夫に話しても理解してもらえないし、どうせ否定されますから、もう何も話しません」という女性の声はこれまで何千回も耳にしました。

正解です。誰彼なしに相手を選ばず「共感」を求めていると、より傷つくことになるでしょう。

どんな相手になら「話を聞いてもらう」というギャンブルに勝てるのか。答えは「誠実な人」です。

「理解されないことによる精神的な傷」、私も何度となく経験しました。障害を負って間もないころのこと。「目が見えづらい」と伝えると、なぜか皆さん、同じようなことを言うのです。

「私も目が悪くて、メガネ(コンタクト)を外すと、あまり見えないんですよ」。おそらく気を遣ってくれているのでしょう。この「私も」を聞くと、いつも謎のもやもやを感じていました。気遣いはありがたいのですが、「目が悪い」のレベルがケタ違いで、虚しさを感じたものです。

そんななか、忘れられないのは、ある取引先の男性が言ったひと言。私が彼に抱いていた印象は「不器用、でも誠実な人」でした。

視覚障害を負ったことを伝えると、彼はボソッとこう言ったのです。「片田さん、おれ...正直...何も言えないっす」。それは、とても誠実な言葉でした。

解決策などありませんし、優しい気遣いがむしろ痛々しく感じていたころ、彼が発した「誠実な言葉」に心が癒されたことを覚えています。

悩みや苦痛を他人に話して気が楽になるのは、「自分一人で背負っているのではないこと」を実感できるから。人間は一人で生きられるほど、強い存在ではありません。

実際、問題を解決するのは自分自身です。それでも、「信頼できる誰か」がいて、困ったときは「同じ問題意識」を共有してくれる。その実感があってこそ、勇気が湧いてくるのです。

「話を聞いてもらう相手」を間違えると、あなたのメンタルはどんどん傷ついていきます。解決策を教えてくれる優秀な人、気を遣ってくれる優しい人よりも、「同じ目線で考えてくれる誠実な人」を選んで本音を話せばよいでしょう。

 

「わかってもらいたい」のハードルを下げよう

何か大きな悩みを抱えていたり、気持ちが前向きにならなかったり、未来のことで不安になっていたり。そんなとき誰かにそれを話して理解して欲しくなるものです。

ところが、大事なことほど他の人にわかってもらうことは難しいもの。「誰もわかってくれない……」と、さらに気持ちが深く沈みこんでしまうこともあるでしょう。

わかってもらえないと残念な気分になる、ガッカリする──。これらも自然な弱さであり、おかしなことではありません。そこで「どうしてわかってくれないんだ!」と声を荒らげると、よりわかってもらえない。不毛な気持ちになるものです。

では、どうすればわかってもらえるのか。

第一に「わかってもらうのハードルを下げること」、第二に「わかってもらう工夫をすること」です。

言葉というのは不完全なもの。見たものや聞いたもの、感じたことをそのまま口にしても、あなたの頭にあることが細部まで含めて100パーセント、相手に伝わるなどということはありえません。

夫婦や親子など密接な関係だと、なおさら「わかって欲しい」のハードルが上がります。

それに、何かで悩んで不安になっているときというのは、冷静に言葉や表現を選ぶ余裕もありません。伝えるための工夫を怠っているのに、ありえないほど高い理解を期待していれば、「わかってもらえない」でイヤな気分になるのも当然です。

私も、「どのぐらい目が見えづらいか」について「誰もわかってくれない」と悩んでいた時期がありました。とくに経営していた会社を手放し、会社員に戻ったころのこと。「視覚障害者であること」は伝えているものの、「どのぐらい見えづらいのか」、まわりの方に伝わらず、もやもやしていたのです。

そんなときある人がこう聞いてくれたのです。「片田さんの目、どのぐらい見えないのか、よくわからなくて」と。

そのとき「誰もわかってくれない」と卑屈になっていたことに気がつきました。伝える努力もせず、「わかってもらう」を期待していた自分が恥ずかしくなったのです。

それからは「どのぐらい見えづらいのか」、視野を表現する図をつくるなど「わかってもらうための工夫」をするようになりました。

その過程で感じたのが何が見えて、何が見えないか、それはとても主観的な感覚であり、完璧にわかってもらうことなど不可能だということ。

長年、一緒に暮らしている妻でさえ「わからない」と言います。ましてや、それを会って間もない他人に「わかって欲しい」と期待するのは、みずから「失望のタネを蒔まいている」ようなものといえます。

どう考えているか、どう感じているか、というのもまったく同じ、主観的なもの。それらが相手に伝わるのはむしろ奇跡的なことだと考えてください。

伝えたい、わかって欲しいことのせいぜい二割が伝われば十分。結果、半分も伝われば、むしろ喜びさえ湧いてきます。

「わかってもらえない」というガッカリ感を減らしたければ、「わかってもらう工夫」をしたうえで、「わかってもらう」のハードルを下げてみましょう。

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「わかってもらいたい」なら、先にわかってあげる

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