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生き方

精神科医が仏教に学んだ「怒りを簡単にしずめる方法」

名越康文(精神科医)

2022年09月30日 公開 2024年12月16日 更新

家族とのちょっとした言い合いや、ルールやマナーを守らない人への不満など、日常の中には様々な怒りがあふれています。それがどんなに小さな怒りであったとしても、心や体には少なからずダメージが蓄積してしまうもの。

仏教心理学の視点から見ると、「ネガティブな感情」の影響を受けやすい人には特徴があるそうです。人気精神科医・名越康文氏に、怒りを鎮め静かな心を取り戻すコツを聞きました。

※本稿は、名越康文著『どうせ死ぬのになぜ生きるのか』(PHP新書)から一部抜粋・編集したものです。

 

「怒り」に気づき、ネガティブ感情を静める

怒りや悲しみ、あるいは欲といった強い感情に囚われると、僕らは「怒っている自分」「悲しんでいる自分」「欲にかられている自分」とは違う「平静な心の自分」を思い描けなくなります。

しかしどれほど心の中で暴風雨が荒れ狂っていたとしても、それはあくまで「心」の働きであり、あなた自身の本当の姿ではない、というのが仏教の教えです。

仏教では「怒り」という感情こそが、あらゆる感情の中でもっとも大きく人間の能力を損なう害悪であると考えます。

ただ、仏教における「怒り」というのは、僕たちが一般に「怒り」や「怒る」という言葉で捉えている感情よりも、ずっと広い心の動きを対象としています。これを仏教では「瞋(しん)」と呼びます。

これに欲深さを表す「貪(とん)」と、無智であることを表す「痴(ち)」を合わせた3つ、貪・瞋・痴の「三毒」こそが、人間が克服すべき煩悩であるとされています。

この3つは互いに絡み合いながら、人間の心を揺さぶっています。もちろん最終的には、この三毒すべてを払う必要があります。

ただ、「貪」と「痴」はたいがい「瞋」に結びついていますので、「瞋」をしっかりと捉え、ターゲットにすると、自然と「貪」と「痴」にもアプローチすることができる。

そういう意味で、「瞋」、すなわち「怒りを静める」ということが、日々の実践の中では中心として位置づけることができるのです。

さて、「瞋」というのは、僕らが普通「怒り」という言葉で捉えるよりも広い概念であると述べました。例えば「カチンと来る」という感じの怒りや、「こいつ、ぶん殴ってやる!」というような激しい怒りなどは、比較的「怒り」という言葉でイメージしやすいものだと思います。

こうしたものも、もちろん「瞋」のひとつであり、できるかぎり日常の中で払ってほしい感情です。しかしその一方で、「瞋」には、僕らが日常的には「怒り」だと認識していないものも含まれています。

「不安」というのも「瞋」のひとつの現れです。どんな不安でも、その奥には怒りがある......そう言われてもピンと来ない人もいるかもしれません。

つまり、「不安」というのは一見「現実」に根を張っているように見えて、その根っこは心の中の「未来予測」に向かって伸びているということです。

自分が勝手に予測し、つくり上げた「悪い未来」に対する怒り、「どうして自分がひどい目に遭うんだ」という怒りが、不安の奥に潜んでいることが多いのです。

この他にも妬みや軽視といった、人を見下すような気持ちや、「暗い気分」「低いテンション」といったものも怒りの表れだと考えられています。

ひとまず仏教における怒り=瞋という概念が、僕らが通常考える「怒り」よりも広い、さまざまなネガティブな感情を指しているということを押さえておきましょう。

 

怒りの8割は「気づく」ことで解消する

「怒り=瞋」という観点から僕らの日常を振り返ってみると、僕らがいかに怒りにまみれながら日々を過ごしているかということがよくわかります。

家族とのちょっとした会話の行き違いや、電車の乗り降りで身体が当たったというような些細なことでも、僕らの心には怒りが生じています。そして、それが大きな怒りであれ小さな怒りであれ、あらゆる怒りは僕らの心と身体に、着実にダメージを与えています。

ここでしっかりと認識してもらいたいのは、怒りというのは「それ自体」が心にダメージを与えるものだ、ということです。最近、怒りの問題は仏教以外でも指摘されるようになっています。

しかしそこではたいてい、「怒りによって人間関係が壊れる」ということや「怒りによって集中力が失われ、仕事が失敗すること」といった形で怒りの問題が取り扱われています。

もちろん、そういった「怒りによる2次被害」への対応も重要なのですが、行(ぎょう:仏教の言葉。心を落ち着かせ、整える方法)によって怒りを消していくときには、むしろ「怒りそのもの」の害を減らす、ということを意識してほしいのです。

仏教では、「怒りによって何か現実的にマイナスが生じる」ということ(怒りによる2次被害)だけではなく、「怒りそのもの」が心にダメージを与えていること(怒りによる1次被害)を、より本質的な問題と考えます。怒りはどれほど小さくても、心に確実にダメージを与えます。

一つひとつの怒りによるダメージは小さくても、何十、何百という怒りが積もっていくと、僕らの心はどんどん波立ち、平静の心から遠ざかってしまいます。

では、そうした怒りをどう払っていくのか。仏教ではまず、「自分の怒りを観察する」ということが、「怒りを払う」第一歩と位置づけています。自分の怒りを冷静に見つめることができれば、そのとき、その怒りの8割は消え去っているといっても過言ではないのです。

例えば1日100回怒っているとして、意識できるのはそのうち、1つ、2つかもしれません。それを少しでも増やしていく。自分の中の怒りに気づく回数が4つ、5つと増えていくだけで、その人の表情や、あるいは周囲の人とのコミュニケーションは劇的といっていいぐらい変わってきます。

怒りというのは、心の水の流れに、ドス黒いインクを流しているようなものです。しかし、心の水は一瞬も留まることなく、流れています。ですから、日々の怒りを少しずつでも減らしていくことができれば、だんだんと元の澄んだ流れに戻すことができるのです。

怒りに「気づく」「認識する」ということは些細なことのようでそれがもたらす力は絶大です。最初から「怒らないようにしよう」「怒りを払おう」と考えるのではなく、まず「怒っている自分を発見する」ことを目標に取り組んでみてください。それは一見、ささやかな一歩のように見えて、あなたの人生を大きく変える一歩になるはずです。

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「私は怒っています」と3回唱える

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