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松下幸之助はなぜ「新しい人間観」を提唱したのか

松下幸之助

2022年10月12日 公開

高度経済成長を経て、私たちの生活は大きく発展し豊かになりましたが、その一方で、新たに生み出される差別や偏見など、人類が抱えている矛盾はますます浮き彫りとなっています。

拡大し続ける人類の活動もまた、地球環境に深刻な影響を及ぼしかねないと懸念され、先の見えない生活に不安を覚える人も少なくないでしょう。

「人間の本質はもっとほかにある、人間は本来もっとすぐれたものである、調和ある繁栄、平和、幸福を実現しうるものである」

PHP研究所の創設者の松下幸之助も、昭和の戦争に伴う混乱を経験し、人間の在り方に強い疑問を覚え哲学し続けた1人でした。

50年前に出版した著書『人間を考える』の中で、幸之助は「新しい人間観」として数々の言葉を残しています。

日本の将来を憂い、晩年まで人間の本質探り、あるべき姿を訴え続けた幸之助が、人々に届けたかったメッセージとは...。現代を生きる私たちが見つめなおしたい「人間の生き方」に迫った一節を紹介します。

※ 本稿は、松下幸之助著『人間を考える』(PHP研究所)より、内容を一部を抜粋・編集したものです。

 

核兵器に対する恐怖が「真の平和」を遠ざける

世界的な大戦争というものは、幸いにして第2次世界大戦以後には起こっていません。しかし、局地的な戦争、戦闘あるいは悲惨な紛争などは、国際連合はじめ、世界の多くの人々の願いと努力にもかかわらず、その間もアジアでアフリカで、また東欧で、中近東で中南米で絶えまなく生じ、今なお続けられています。

そして、それによって何百万、何千万という多くの人々が、あるいは倒れ、あるいは傷つき、家族を失い財産を失うなどの不幸に陥っています。

しかも、当面のところ世界的な大戦争がない、いわば全体としての平和的な姿であるというものの、そのよってきたるところは、1つには核兵器に対する恐怖からだといわれています。

原子爆弾、水素爆弾というものが発明され、そのわずか1発で大きな都市を破壊し、何十万、何百万という人々の生命が奪われる危険も出てきました。そして今日までにつくられ蓄えられている核兵器の総量は、世界じゅうの人々を絶滅させうるものであるといわれています。

そこから、このような人間を滅ぼしかねない大量殺戮兵器の出現によって、人間はその恐ろしさにおびえ、平和を保っていくようになるだろうという考え方も出てきています。

確かにそれも1つの見方でしょう。また、事実この20数年間、世界の各所で頻発した戦争がいずれも局地的なものにとどまりえたのは、いわゆる核の抑止力、つまり原水爆に対する恐怖によってであるともいわれています。

しかし、もしそのように核兵器の怖さによって、やむをえず大規模な武力の行使を抑えているとするならば、そういう姿をはたして真の平和といえるでしょうか。また、そういうようなことでいつまでも平和を保っていけると安易に考えていいものでしょうか。

過去において、人間は、たとえば大砲とか爆弾といった、それ以前のものから見れば画期的な破壊力をもつと考えられる兵器を生み出してきました。それを行使すれば、人間の上にこれまで以上に悲惨な状態がもたらされることは、それらが発明された当時の人々も知っていたことでしょう。

しかし、それにもかかわらず、やはり戦争は起こり、平和は維持されなかった、つまり、そういう兵器は戦争をなくすことはできなかったのです。それと同じように、核兵器でも、何か事があった場合、あえてこれを使おうと考える人間が出てこないとも限りません。

そういうことを考えてみると、核兵器というものは決して真の平和を保証するものではないと思うのです。

やはり、真の平和というものは、単に戦争がないという、かたちだけのものではありません。人々の心と心がかよいあい、お互いに助けあって、知恵と力を供与しあうというようなところから、初めて実現してくるものでしょう。

そのような意味からすれば、今日の世界の姿は、まだまだ真の平和にはほど遠いといわなくてはなりません。

 

人間の本質を“正しく自覚”すること

そのようにいろいろなことを考えてみますと、人間はその長い歴史を通じて、宗教、科学、道徳、教育、政治をはじめさまざまな学問や社会の制度などあらゆる面において大きな進歩を生んできましたし、また今日もさまざまな努力を重ねていますが、いまだなお、好ましからざる姿を少なくしていくことができないでいることが分かります。

いったいこれはどういうことなのでしょうか。文化が進み、文明が発達してきたにもかかわらず、人間は同じような不幸をくり返している、というよりも、文明の進歩に反して不幸が大きくなってきている面さえ見られるわけです。なぜこのようなことになるのでしょうか。

1つには、人間というものは結局そういう宿命をもっているのだという考え方があります。これまでに述べたように、ある面では進歩を生み出しながら、他方では絶えず争いをくり返し、みずから不幸を招来している、それが人間の本来の姿なのだとする考え方です。

もしそういう考え方に立つならば、お互いがいかに研究し、努力したとしても、しょせん人間生活の上に真の幸せというものはもたらされず、人間は調和ある繁栄とか平和、幸福を望みつつも、それをお互いのものにすることができないということにもなります。

しかし、はたして人間とは、そのように常に弱く愚かなものでしょうか。それが人間の本質なのでしょうか。そうではないと思います。

人間の本質はもっとほかにある、人間は本来もっとすぐれたものである、調和ある繁栄、平和、幸福を実現しうるものである、ただそこにそれなりの原因があって、いまだなおその立派な本質を十分に現わすことができないでいるのだ、そういうことを十分に認識し、人間の本質を正しく自覚するならば、人間の共同生活は必ず好ましいものになるのだ、と、そう思うのです。

なぜそのように考えられるのか、その本質はどのようにすれば発揮することができるのか、それについての1つの考え方を示したものがこの「新しい人間観の提唱」(https://konosuke-matsushita.com/keywords/human-nature-universe/no5.php)なのです。

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物心両面の調和をもたらす提唱

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