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イタリアは「互いが寛容でいられる社会」 電車の遅延は当然、おつりは適当でも...

中山久美子(イタリア語通訳・コーディネイター)

2025年04月14日 公開

イタリアは「互いが寛容でいられる社会」 電車の遅延は当然、おつりは適当でも...

(写真:中山久美子)

イタリアと聞くと、陽気な人々、美味しいピザやパスタ、太陽の光を浴びて輝く、色彩豊かな街並み...。そんなイメージが思い浮かびます。実際、イタリアでのリアルな生活はどのようなものなのでしょう?

本稿では、トスカーナ州在住の中山久美子さんによる書籍『イタリア流。』より、「イタリアの互いが寛容でいられる社会」についてご紹介します。

※本稿は、中山久美子著『イタリア流。 世界一、人生を楽しそうに生きている人たちの流儀』(大和出版)を一部抜粋・編集したものです。

 

適当でも、完璧でなくても、行き当たりばったりでもいい

近年イタリアでは日本ブームで、友人やその友達でも日本旅行に行く人が大勢います。その皆が口をそろえて言うのが「何もかもが正確で完璧!」イタリアは最悪、日本に住みたいよ! とまで言う人も少なくありません。

「でもね、その完璧なサービスを行う側になってごらん?」、「仕事ではいつも完璧を求められるんだよ。ミスは許されないという環境で働き続けるんだよ」と言うと、誰もがすぐに冷静になり、「それは勘弁だな〜」と一気に考えを覆します。

それは、絶対的納期があり、校正を伴う仕事をしていた25年前の私です。完璧な段取りでつつがなく行程通りに仕事を進め、ミスをすれば一巻の終わり。最初の数年はストレスで胃に穴が開きそうで、通勤電車に揺られながら、このままどこかへ行ってしまいたい、と思うほどでした。

これはそういう仕事だから当然ではありますが、仕事でもプライベートでも、ちょっとしたあらゆることに対して完璧でなくてはいけない、人に迷惑をかけてはいけない、という感覚は今でも、日本に住む日本人なら誰でも持っているのではないでしょうか。

イタリアでは良くも悪くも、「完璧なことは存在しない」という前提がある気がします。

電車の遅延表示も最低5分から、つまり5分以下は遅延に入らず、定刻の範囲であること。工事現場やプロジェクトなどのスケジュールも、あくまでも目安です。

おつりだって、10セント以下は適当。足りなければおまけしてくれますが、逆にお店に小銭がないともらえなかったりもします。

約束の時間になってまだ家にいたとしても「Sto arrivando =今向かってるよ」という魔法の言葉で済ませられ、何かを忘れてしまった時の言い訳も「Mi è sfuggito =(その事柄が)私(の頭)から逃げちゃった」とう言い回しを使うところに、不可抗力だった、そういうこともあるさ! という感覚がにじみ出ています。

最初はそれにイライラしていた私ですが、適度に合わせたほうが自分も楽なことに気づきました。

人間だからうまくいかないこともある。それは仕方がないし、その時々に考えればいい。なんなら予定を変更して結果オーライになることも多いし、その時の満足感のほうが大きいんじゃない? そう思うと、一気に気が楽になります。

相手に寛容になると、自分も「完璧でなくてはいけない」呪縛から解放されました。

 

足りないものは補ってもらおう

物事が予定通りに進まないのに、なぜイタリアの社会は周っているのでしょうか? これだけ長くイタリアに住んでも、「イタリアン・マジック」と思う部分も大きいのですが、そのマジックが起こる要因の一つは、やはり助け合いの精神だと思います。

日本で生活している時、そしてイタリアに移住した当初は、頑張らないといけない、自分でなんとかしないといけない、そんな気持ちを持っていた私。それでもイタリア社会に溶け込むにつれ、どんどん力が抜けていきました。

あらゆることにゆるく、日本との考え方の違いに最初はびっくり、どちらかといえばネガティブな意味での驚きの連続でした。しかし時が経つにつれ、いい意味でのあきらめになり、私自身のゆとりにもなっていきました。

子どもが小さい頃、姑や夫に頼るのは当たり前。仕事や電車トラブルで学校のお迎えに行けない時やランチを準備できない時も、ママ友に頼るのが当たり前。妊婦やお年寄りに席を譲ったり、荷物を持ってあげたりするのも当たり前。

感謝の気持ちを伝えるのは当然ですが、自分が頼られる時は手助けするという前提があるから、気軽に助けてもらえます。困った時はお互いさま、普段ゆるいぶん、いざという時の団結力や成し遂げる力は目を見張るものがあります。

極端な例ですが、昔フィレンツェの市バスに乗っている時に、道路工事で運行順路変更を知らず通常の順路で走っていた運転手さんがいました。ある角を曲がると工事現場。乗客の何人かが「順路が変わったの知らなかったの?」と口々に言いますが、運転手は後方が見えない中で曲がりながらバックするのに必死です。

そこで「ドア開けて、私が見てあげるから」と一人が言うと、数人の乗客が降りオーライ、オーライ、と連係プレーで安全確認と運転指示を出してくれます。こうしてバスは無事に元の道に戻り、乗客から変更になった順路を教えてもらって走り出しました。

日本ではクレームに成り兼ねないこんな出来事も、ほのぼのとした一件で終わったことに、ある種の衝撃を受けました。

助けてもらえることに胡坐をかいてはいけません。しかし完璧さを求め、自己責任と突き放す社会より、互いが寛容でいられる社会のほうが穏やかでいられます。

 

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