吉村 文雄(よしむら ふみお)東映株式会社代表取締役社長
私立大学はどのように生き残るべきか。大学の成功度合いは、卒業生の活躍を見ればわかる。日本のエンターテインメント産業を担う東映株式会社の社長に、立命館大学客員教授が学生時代から現在までの歩み、経営課題について聞いた。
※本稿は、西山昭彦著『立命館の快進撃』(PHP研究所)を一部抜粋・編集したものです。
【学生時代】「何をしてほしいか」に先回りで気づく
吉村さんは鹿児島に生まれ、テレビ局勤務の父親と映画好きの母親の影響で、小さい頃からテレビや映画が好きだった。加えて、中学からは文武両道の道を歩んだ。
「中・高、そして大学2年生までずっと卓球部でした。あとは音楽も好きで、実は今も仲間と組んだハードロックバンドでベースを弾いています。
鹿児島中央高校の出身で、当時『県立予備校』と陰口を叩かれるような進学校でした。ほぼ全員大学に行くんですけど、(学力的に)公立で一番上の鶴丸高校と違い、長時間の勉強を強いられる。
朝7時半に始まる『ゼロ時間目』からなんと『8時間目』まであるので、1日9時間も勉強するんです。7月に終業式が終わって夏休みかと思いきや、夏休みも同じスケジュール。
とにかく大学に入るために、入試のカリキュラムを徹底して勉強するから、合格して大学に入ると気が抜けて『もう勉強なんてしたくない』という気持ちになってしまい、留年する人も多かったです」
立命館の文学部心理学専攻に入学したが、それには明確な志望理由があった。
「もともと心理学の勉強をしたいというのがあって、受験したのも全部心理学専攻がある大学。フロイト、ユングに興味があって、人間の心理を勉強したいと思って選んだんです。けれども入ってびっくりしたのは、実験やデータ解析など、理系の講義や課題が多いことでした。マウスを使った実験もやりましたね」
学生時代は、夜のバイトに精を出した。スナック、飲み屋のホールスタッフ、バーテンダー、調理補助まで何でもやっていた。特に印象深かったのは、祇園のとある割烹でのアルバイトだった。
「とにかくお客さんを相手にする仕事が楽しかった。没頭し過ぎて、学業をおろそかにした面もありました。3年以上勤めましたけど、大将には可愛がっていただいて、『就職するぐらいだったらうちの弟子にならないか』といわれたほどです。
評価されたのは、たぶん『お客さんが次に何をしてほしいと思っているか』に先回りして気づくことができたから。いち早くリアクションするのがいちばんのサービスだと理解していました。そこだけは気をつけてやってきましたね」
仕事のできる人は、学生バイトでも抜きん出た実績を上げる。この時点から素質、姿勢が普通の人とは違う。店主の才覚やスタッフ、吉村さんたちアルバイトの活躍もあり、その割烹は以後、急成長した。
【東映総合職】自由な発想で挑んだイベント事業
一般に、エンタメ企業が総合職として社員を採用するときは感性やセンスを第1条件にはせず、将来の幹部候補生として総合的に優秀な人を採るのだろうと想像できる。
しかし、実際に入ったら感性やセンスはものすごく大事な要素となるはずだ。同社ではその点をどのように考えているのだろうか。
「私たちの2期上までは監督やプロデューサーになる人を別枠で採用していたんです。しかし私たちの一つ上の代から総合職採用になり、どこに配属されるか全くわからないまま入社しました」
同社では、たとえば経理部から映画製作の部署への異動もままあるという。
吉村さんの場合はイベントの現場にいきなり配属されたわけだが、イベントの企画を行うとき、どのようにアイデアを出し、実現してきたのだろうか。
「初めてイベントの仕事に触れたのは、東映が当時も今も主力にしているキャラクターショー、ヒーローショーで、百貨店やスーパー、ショッピングモール向けのイベントをパッケージで売るのがメインの仕事でした。
ただ、それ以外のイベントに関しては、かなり自由にいろいろな挑戦をすることができました。当時、いろいろな会社がイベントを企画して、異業種の人たちがイベント業界に参入しており、多種多様な方々とつながりができましたし、仕事のバックボーンが違う人たちと話をするので、新しいアイデアがたくさん出てくる。景気もよかったので、予算もつく。今にしてみると稀有な時代でしたが、思いついたことを即ビジネスにできたんです」
今でいうダイバーシティのメリットを利用して、新アイデア、新基軸を打ち出していったことになる。
「映画業界はわりと閉じられた世界で、業界内ではお互い仲がいいんですよ。でも外の業界との付き合いは、実はあまり多くない。
一方、私が担当していたイベント事業においては、あらゆる業態の企業がクライアントとなる可能性があります。どの業界の誰とお付き合いしてどんなアイデアをもらおうか、そしてそれをどうやってイベントの企画にまとめ上げようか―そんなことをつねに考えながら仕事をしていました」
国際展への挑戦─世界を巻き込んだ東映のゲリラ戦略
その後、30歳で本社に来て、引き続きイベント事業を担当した。そこから国際展覧会事業(海外の美術館、博物館から展示品を借り受けて展覧会を企画し、国内で開催する)の担当を約五年間務めた。
「展覧会事業はある種『ブランド』が重要視されるので、たとえばルーブル美術館、大英博物館から所蔵品をお借りしようとすると、日本経済新聞社や朝日新聞社、全国ネットのテレビ局の企画でないと、なかなか向こうも相手にしてくれませんでした。
1965年、朝日新聞社がツタンカーメンのマスクを目玉に、東京国立博物館、京都市美術館、福岡県文化会館で『ツタンカーメン展』を開催し、計293万人を動員しました。あの展覧会をもう一度、東映の手で行うのが夢だったんです。
そこでまずは実績づくりのためにカイロ博物館の所蔵品を借り、何度もエジプト展を開催しました。ところが向こうも商売上手で、ツタンカーメン以外のマスクは貸してくれるけれど、ツタンカーメンだけは貸してくれない」
ツタンカーメン展は実現できなかったが、東映はここで角度を変えて事業を拡大していった。
「エジプト展は毎回、成功していたんです。このノウハウを1つの柱に、今度は横軸で違う国へ展開を広げていきました。ノルウェーやウクライナ、南米のコロンビアなど当時他社が見向きもしなかった国々の博物館から展示品を借り受けて展覧会を実施しました。ゲリラ戦ですね」
吉村さんたちはそのために世界各地を飛び回り、新しい国とのビジネスを成功させる。
「普段ならなかなか行けないような国に何度も行かせてもらいましたし、『本当にこんなものを持ってきていいのか』と思うような展示品もありました。
最後に担当したのはペルーの展覧会だったのですが、当時『ナショナルジオグラフィック』で取り上げられて世界的に話題となった、アンデス山中から発見された氷漬けの少女『フワニータ』のミイラ。顔の表情までよくわかるんです。
本当に借りられるのか不安でしたが、交渉がまとまって貸してくれることになった。そのフワニータをメインに、1999年に『ペルー移民100周年記念 悠久の大インカ展』を開催しました。
現地へ赴き、許可を得て日本に持ち込んだものの、フワニータを長期間国外で展示する初めての事例だったため、万一の事故で溶けてしまうようなことになると大変なことになると思い、肝を冷やしました」
【社長就任】海外改革へハリウッドに挑む東映撮影所の未来
ここで、あえて同社で吉村さんが昇進を続けた要因を聞いてみた。なかなか答えにくいだろう、と思いつつ。
「もともと偉くなりたいとか、人の上に立ちたいと思ったことはあまりなくて。キャリアについても、周囲からは『敗戦処理とか、手間のかかることばかりやらされてるね』といわれます。自分ではそんなふうに思ったことはないのですが」
「私たちの世界では、ゼロからモノをつくり出せるプロデューサーがいちばん偉いんです。今でもその気質が残っていて、会社のトップは大体クリエイティブな業務に関わった人間が務めていました。畑違いの自分が社長になるなど、考えたこともなかった」
そんな中、前社長の急逝によりはからずも社長になった。そこで吉村社長は、10年後に海外売上高比率を50%にするというビジョンに添って様々な経営改革に乗り出した。
「海外展開については、グループ会社に東映アニメーションがあり、世界的なアニメ人気を受けて好業績です。他方で、課題は実写ジャンル。アニメと違い、日本人向けに作られた作品をそのまま海外に広げるのは難しい。この壁をどうやって越えていくか。
長年、国内市場でビジネスが成り立っていた分、グローバル連携に注力してこなかった、という反省があります。人口減の中、どうやって実写作品を世界の人々に観ていただけるコンテンツにするか、いろいろな道を模索しているのが今の段階です。
当社も国際事業部門を新たに独立させ、外部からのキャリア採用の方々も含めて海外担当スタッフを増やしました。もう少し時間がかかりそうですが、そろそろいくつか成功事例を作れるのではないかと期待しています。
その点では、米国のHuluで配信された『SHOGUN 将軍』というドラマの大ヒットは本当に大きいと思います。完全な時代劇でキャストはほぼ日本人、台詞の7、8割が日本語というコンテンツが、アメリカでエミー賞の18部門を受賞するという評価を受けました。
一昨年、ロサンゼルスに出張に行った際には町中に広告の看板があって、皆、『SHOGUN』を知っていました。現地に住んでいる運転手の方も『見た。すごく面白い』と。そこまで浸透しているのか、という感激に加え、時代劇の可能性にも気付かされました。
また、ハリウッドの映像制作会社の方々に東映の撮影所のアピールをしたことがきっかけで、東映京都撮影所に海外から問い合わせや企画の提案を数多くいただき、そのうちのいくつかについては、共同で企画を開発中です。世界と仕事をするといろいろ面白いことがある、と痛感しますね」
立命館を振り返る「行くなら京都だ」
最後に、立命館に5年間通っていちばん役立っていることを聞いてみた。
「大学と直接関係があるかはさておき、立命館が京都という土地にあるのは、本当に素晴らしいと思います。京都で5年間大学に通えたことは人生に役立っているし、ある種のバックボーンみたいなものが形成されたと思っています」
千年の都にはそれだけの歴史と文化的蓄積が詰まっている。私も京都に住んでいたとき、同じことを感じた。東京の友人を見ていても、年齢が上になるほど京都をめざす傾向がある。
もしあなたが東京生まれ・東京育ちで将来、東京で就職したかったら、大学は京都へ通うのも価値があるだろう。そうしないと、他の風土を知らず、同じ視点で一生を過ごすことになる。地域を1つ選ぶとすれば、「行くなら京都だ」が筆者の実感である。
「あとは、立命館という学校の気風ですね。今はおしゃれな感じになりましたけど、私たちの時代は本当にバンカラで、自分もジャージとサンダルで学校に通っていました。政治的な立て看板も山のように立っていましたし、いろんな意味でアグレッシブな学校でした。
関西ではよく同志社と立命館が対比され、野球でもサッカーでも立同戦があって対抗意識が強い。同志社のカラーはハイソな感じで、うちは少し地味だけれど、こういう学校に在籍できたのはよかった。昔ほど学校の特徴には差がないかもしれませんが、校風が色濃く残る時代に10代後半から20代前半の時期を過ごせたのは、今の自分にとって何がしかの根っこになっていると思います」
たしかに、校風に差がなくなってきているのも事実だ。しかし、大学の挑戦的風土で立命館が抜きん出ていることは、外部からも認められている。背景として、他の都道府県から志望者が集まってくる比率が、大規模大学の中できわめて高いという事実がある。当時の様子はどうだったのだろうか。
「地方出身者は多かったですね。うちのクラスは中高の附属校出身者が何人かいましたが、あとは全国各地で年齢もバラバラ(笑)。入学してびっくりしたのは、23歳の1年生がいて、おいちゃんって呼ばれていましたから」
今は年齢面ではそこまで広がりはないが、留学生の多さは特筆され、多彩な環境自体が学びになる。吉村さんはイベント企画時、異業種によるダイバーシティのメリットを語っていたが、大学時代も多様な環境にいたことになる。それがどこかで、発想や行動の広がりにつながっているのかもしれない。








