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織田信長の妻・帰蝶は“本能寺の変の後も生きていた”と思える理由

2023年03月06日 公開

諸田玲子(作家)

諸田玲子 織田

斎藤道三の娘・帰蝶(濃姫)は、15歳で織田家に嫁ぐ。絵に描いたような政略結婚だったが、夫は〈大うつけ〉とも噂される織田家の嫡男・信長だった。

いつ実家と婚家が敵対するかわからない緊迫した状況のなか、帰蝶は信長とどのような生活を送っていたのか。

小説『帰蝶』で、織田家の奥を取り仕切った妻の奮闘を描いた著者が、その謎多き人生をひもとく。

※本稿は、『歴史街道』2023年3月号の特集「織田信長と斎藤道三」から一部抜粋・編集したものです。

 

謎多き信長の正室・帰蝶とは

織田信長の正室、帰蝶(美濃から嫁いだので濃姫とも呼ばれた)の人生は謎が多い。とりわけ後半生については没年も墓所も不明で、諸説が入り乱れている。伝承の類がないことを生存の証とするか早世の証とするかは、大きく意見の分かれるところだ。

ただし前半生についてはある程度、足跡をたどることができる。帰蝶は天文4年(1535)、美濃国で、稲葉山城主の斎藤道三と3番目の妻である小見の方の長女として生まれたとされている。

道三は下剋上を体現したような人物で、美濃の守護だった土岐氏の家臣を振り出しに、謀略の限りを尽くして一国一城の主に成りあがったといわれているが、ここでは割愛する。

小見の方は、足利将軍家の奉公衆だった明智一族の娘で、本能寺の変を起こした明智光秀とも同族である。帰蝶と光秀を従兄妹、叔父と姪などとする説もあるが、正確なところはわからない。

奉公衆は名誉ある役目で、当時、国人衆は自らの権威付けをするためにこぞって一族の優秀な人材を京へ送り込んでいた。世の動きに後れをとらぬよう、情報交換をするためである。

尾張国で着々と地歩を固めつつあった信長の父の信秀も、同様のことをしていたはずだ。家老の平手政秀を京へ送り、いわばこうしたサロンで斎藤道三の家臣、おそらく武井夕庵らと知友を得、主家の政略のために縁談の取り決めをしたのだろう。

天文18年(1549)2月24日、帰蝶は織田家へ嫁いだ。花嫁は15歳、花婿の信長は16歳だった。帰蝶は那古野城へ入輿し、信長の清須攻略後は、清須城で暮らしていたものと思われる。

このころ、信長は"大うつけ"と噂されていた。真偽をたしかめようと聖徳寺で信長と対面をした道三が、うつけどころかたいそうな大物ぶりに舌を巻いた話や、嫁いでゆく娘に短刀を手渡し、うつけなら寝首を掻き切るよう命じたところが「父上の首を掻き切ることになるやもしれませぬ」と返されて苦笑した話などが伝わっている。

もっとも、帰蝶に関していえば、あの道三の娘なら勝ち気で当然という思い込みから、後世になってつくられた逸話だと考えられる。

 

抜き身の刀に抱かれたような日常

では実際の帰蝶は、どんな思いで織田家へ嫁ぎ、夫信長をどう思っていたのだろう。

戦国時代の武将の娘たちは政略結婚をさせられて可哀そう......といった見方は、多くの場合、当たっていないと私は思う。男たちの戦と同様、女たちの結婚は生まれたときから定められた大事な役目で、政略もなにも、幼いころから当然のこととして刷り込まれていただろうし、実家の命運もわからぬ戦乱の世であれば、結婚はすなわち生きるために必須であったはずだ。

徳川家康の母は2度、祖母は5度(6度とも)嫁いでいるし、徳川秀忠の正室のお江は3度結婚をしている。結婚の概念そのものが現代とは異なっていたと思った方がよい。そもそも明日まで生き延びられるか、戦国の世では毎日が緊張の連続だったはず。

信長に限らないが、武将の妻になるということは、いつ自分の身を切り裂いてもおかしくない抜き身の刀に抱かれるようなものだろう。耳をふさいでも残虐な話が嫌でも聞こえてくる日常、帰蝶が短刀を隠し持っていたのは、もちろん、異変があれば即刻、自裁するための必需品だったにちがいない。

そう。嫁ぐときは覚悟の上だった。まなじりをつりあげていたのでは。笑みはぎこちなく、視線も泳いでいたかもしれない。けれど、それは歳月と共に変化していったのではないだろうか。

信長は、家族以外には見せない柔和な顔ももっていたように思う。側室の吉乃が病死した際の悲嘆の激しさや、同じく側室のお鍋の方や娘の五徳への細やかな気配りなどの逸話からは、人間らしい一面もうかがえる。

帰蝶とのそうした逸話はないものの、2人の仲がもし険悪だったとしたら、道三は、自分の息子をさしおいて(親子のあいだで壮絶な闘いがあったにせよ)信長に美濃一国を譲るという遺言状(妙覚寺蔵)を認めたりはしなかったはずだ。

このことから、今ひとつ考えられることがある。

帰蝶の消息は、『美濃国諸旧記』の中の、父道三の肖像画を常在寺へ寄進した(「道三の絵像は信長公の北の方御寄進なり」)とする記述を最後に途絶えてしまう。そのため父の死後ほどなく病死したのではないかとの説も、これまでは主流となっていた。

ただ、もし帰蝶が若くして死去したとしたら、吉乃の死にあれほど嘆き悲しんだ信長がまったく悲しみの痕跡を残さない、などということが果たしてありえようか。

本能寺の変の際、安土城から信長の娘の冬姫の嫁ぎ先である蒲生氏の日野城へ逃げた女たちの中に、"北の方"や"御台"という正室をあらわす名の人物がいたとされている。このとき安土城で奥を取り仕切っていたお鍋の方は岐阜城へおもむいているので、この北の方は帰蝶ではないかと思われる。

遺産の分配を記述した『織田信雄分限帳』にも御台所と推測される"安土殿"という記載があり、もちろんお鍋の方との解釈もできなくはないが、遺産の額からすると、これも帰蝶と考えてもおかしくない。

帰蝶が本能寺の変のあとも生きていた、とする説は、この他にも根拠がある。近江八幡市安土町の摠見寺に所蔵されている織田家の過去帳『泰巌相公縁会名簿』の中に「養華院殿要津妙玄大姉 慶長17年壬子7月9日 信長公御台」という記載があり、しかも信長の葬儀を行なった京の大徳寺の塔頭のひとつ、総見院の織田家の墓所にも「養華」という法号の五輪塔墓が見つかっている。

岐阜城が金華山にあることと結びつけるのはうがちすぎかもしれないが、過去帳の院号と総見院の墓、そして『妙心寺史』に記載されている「信長公夫人が一周忌を行なった」という文面をつなぎ合わせれば、帰蝶が信長の死後も慶長17年(1612)まで生存していたという話ががぜん信憑性を帯びてくる。

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