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嫉妬心で韓非を死に追いやり...始皇帝に仕えた李斯の“したたかな処世術”

2023年05月29日 公開

島崎晋(歴史作家)

 

嫉妬の恐ろしさ

韓非は韓の国の公子である。刑名法術(けいめいほうじゅつ)の学を好んだが、その帰するところは黄帝と老子の教えだった。生まれつき吃音症で、話をすることは苦手だったが、著書はすぐれていた。

李斯と同じく荀子に師事したが、李斯は韓非に劣ると自認していた。韓非は韓の領土がだんだんに削り取られていくのを見て、しばしば意見書を提出して諫めたが、王はとりあげなかった。

韓非は廉直(れんちょく)の士が邪な臣から排撃されている現状を悲しみ、万感の思いを込めて、『孤憤』『五蠧(ごと)』『内外儲(ないがいちょ)』『説林(ぜいりん)』『説難(ぜいなん)』など計十数万字の諸篇を著わした。

これらの書物を書き写し、秦に伝えた人がいた。秦王政はそのうちの『孤憤』と『五蠧』を読んで、「ああ、わしはこの者に会って交わることができれば、死んでも怨みはしない」と言った。

李斯が、「これは韓非の著わしたものでございます」と言ったところ、政は軍を派遣して、韓を激しく攻めさせた。韓の王は最初から韓非を重んじていなかったので、秦から要求されると、すんなり韓非を引き渡した。政は非常に喜んだが、韓非を信頼して、重用するまでには至らなかった。

李斯は、いずれ韓非が用いられれば、自分の居場所がなくなると不安になった。そこで政につぎのように吹き込んだ。

「韓非は韓の国の公子です。韓非は結局、韓のために考え、画策をするに違いありません。ですから、彼を用いるのもよくなく、かといって韓へ帰すのもよくありません。災いの種を除くためにも、法を曲げて、死刑にするのが一番かと存じます」

政はなるほどと思い、韓非を投獄した。李斯は人をやり、毒薬を与えた。韓非は政に釈明したく思ったが、謁見は許されなかった。政が後悔して、赦免の使者を遣わしたときには、韓非はすでに死んでいた。

 

「虎狼のような心あり」

尉繚は魏の出身である。尉繚は秦王政につぎのように進言した。

「秦の強きをもってすれば、諸侯は郡県の長のようなものですが、もし諸侯が合従するとなれば油断できません。かの知伯(ちはく)や呉王夫差(ごおうふさ)、斉の湣王(びんおう)が滅んだのも、このためです。

願わくは、大王には財物を惜しむことなく、諸侯の豪臣に賄賂を贈り、合従の謀を妨害されますように。わずか30万金足らずで、すべての諸侯にゆきわたるはずです」

政はこの計略を取り上げるとともに、尉繚を自分と対等の礼をもって待遇し、衣服や飲食も同じようにした。しかし、尉繚はそれを素直に喜ばなかった。彼は内心では次のように思っていた。

「秦王は、鼻が高く目が長く、クマタカのように胸が突き出て、うなるような声を発し、その人となりは残忍で虎狼のような心をもっている。困っているときは人にへりくだるが、得意なときは人を食ったように軽んじる。
わたしは一介の布衣(官位のない人。平民)の身だが、秦王は常にみずからわたしにへりくだっている。もしも秦王に天下の志を得させたら、天下の者はみな秦王の虜になるだろう。長くともにいることのできない人物だ」

尉繚は逃走を図ろうとしたが、政によって阻まれた。尉繚は秦の尉(い)に任じられ、その政策が用いられることになった。実施にあたったのは李斯だった。

【故事成語】逆鱗に触れる
逆鱗とは龍の喉の下にある鱗のこと。これに触れる者は必ず殺されるといわれていた。ここから、人の激しい怒りにあうことを「逆鱗に触れる」と言うようになった。出典は韓非の著作を集めた『韓非子』。

 

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