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月収15万で極貧生活...牧野富太郎を追い詰めた「主任教授・松村との不仲」

2023年08月14日 公開
2023年08月18日 更新

鷹橋忍(作家)

牧野富太郎
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/328/)

NHK連続テレビ小説『らんまん』の主人公のモデルである牧野富太郎。「日本植物学の父」と呼ばれる偉大な学者だが、富太郎は金銭的に非常に苦しい生活を送っていた。極貧生活の背景には主任教授・松村任三との確執があった――。 作家の鷹橋忍氏が、牧野富太郎の波乱万丈の人生について紹介する。

※本稿は、鷹橋忍著『牧野富太郎・植物を友として生きる』(PHP文庫)より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

帝国大学理科大学助手 芸が身を助ける不仕合わせ...31歳・明治26年(1893)

高知にいる富太郎のもとに吉報が舞い込んだ。帝国大学理科大学の松村任三教授から「大学の助手として採用したい」との手紙が届いたのだ。

富太郎いわく、これは帝国大学理科大学の学長の菊池大麓の推挙によるものだという。菊池は富太郎の実力を認めていたうえに、彼に同情的であった。

助手という身分ではあるが、それでも正式な帝国大学理科大学の職員となれるのだ。何よりも、大学の書籍や標本に再び触れられるのがありがたい。富太郎は大変に喜んだという。

しかし、このときはまだ、岸屋の家財整理が終わっていなかった。富太郎は郷里のことが片付きしだい東京へ戻ろうと思い、「数ヶ月中に上京するので、よろしくお願いします」と返事をした。

ところが、富太郎は急遽、上京することになる。翌明治26年(1893)1月、東京に残してきた長女の園子が、風邪が悪化し、急死したのだ。満4歳での早世であった。

長女・園子の死の知らせを受けて、富太郎は東京に戻った。初めての子である園子を大変に可愛がっていたというから、その死のショックは計り知れないほど大きかっただろう。

だが、悲しんでばかりもいられない。実家からの援助がなくなり、自力で稼がなければならないのだ。

幸い、帝国大学理科大学は、富太郎のポストを空けているとのことであった。だが、すぐに助手として、採用されたわけではなかったようである。

富太郎は長女の葬式を終えると、2月以降に、帝国大学理科大学から30円の手当で、植物整理および、植物採集の委嘱を受けている。

同年7月の臨時雇いを経て、9月にはついに助手を拝命する。明治26年8月から帝国大学理科大学で講座制(講座は原則として専任教授が担当し、助教授、助手を置く)が採用されたからだ。富太郎が助手になれたのは、この講座制のおかげだという(渋谷章『牧野富太郎 私は草木の精である』)。

こうして、富太郎は大学を出ずに日本の最高学府の大学助手となったのだ。31歳のことである。

だが、助手となったことで、お金の心配をせずに、研究に専念できるようになったわけではない。むしろ彼と彼の家族の経済的困窮は、このときからはじまる。富太郎自身も「芸が身を助ける不仕合わせ」と称している。

富太郎の月給は15円であった。

高知新聞社編『MAKINO』によれば、米の価格を基準に計算すると、1円はほぼ1万円に相当するという。つまり、富太郎の月給は、現在でいうと約15万円であったことになる。

富太郎より5歳年下で、東京帝国大学文科大学(卒業時)を卒業している夏目漱石(1867~1916)は、明治36年(1903)に同大学の講師になっているが、そのときの年俸は800円、月俸に換算すると約67円であったという。

なお10年前(1883年)、28歳で助教授になった松村の年俸は600円だった。つまり、月に50円貰っていた計算になる(長久保片雲『世界的植物学者 松村任三の生涯』)。

富太郎とはずいぶんと待遇が違う。松村や漱石と違って学歴のない彼を、大学もそれほど厚遇はしなかったのだ。

富太郎が東京帝国大学理科大学の講師になるのは、19年後の明治45年(1912)まで待たねばならなかった。

なにはともあれ、富太郎は助手として植物学教室の松村任三教授の下で勤務し、本格的な研究を再開するのだが――この後は松村と激しく対立することになる。

 

松村任三教授との確執...31歳・明治26年(1893)

富太郎と松村任三の対立関係を語る前に、松村任三の説明が必要だろう。

松村は現在の東京大学理学部植物学教室の基礎を築いた植物学者だ。安政3年(1856)、常陸国下手綱村(現在の茨城県高萩市)の松岡藩士松村鉄次郎(のちの儀夫)の長男として生まれた。富太郎より6歳年上である。はじめは、大学南校で、法律を学んでいた。

明治10年(1877)、21歳の年に、植物学に係る経歴のないまま東京大学附属小石川植物園に就職し、帝国大学理科大学の矢田部良吉教授の助手となり、植物学の研究者としての道を歩むようになった。

そして、矢田部とともに日本各地を旅して植物採集をし、数多くの標本を作製した。明治16年(1883)には、東京大学助教授に就任している。

明治18年(1885)に自費でドイツに留学、植物分類学と生理学を学んだ。帰国後は、帝国大学理科大学教授に就任、明治24年(1891)には理学博士の学位を得た。

非職となった矢田部の後任として植物学教室二代目主任教授となり、のちの明治30年(1897)には、東京帝国大学附属小石川植物園の初代園長を務めることになる。

富太郎はこの輝かしい経歴をもつ松村と、はじめから憎み合っていたわけではない。明治17年(1884)に二度目の上京を果たした富太郎が植物学教室を訪ねた際、当時助教授であった松村は、教授であった矢田部とともに、温かく迎えている。

また、富太郎は初めての上京の帰り道、伊吹山で珍しいスミレを発見しているが、和名がなかったこのスミレに、「イブキスミレ」と命名してくれたのも、松村である。

何よりも松村は、明治21年(1888)から出版をスタートした『日本植物志図篇』の刊行に対し、「日本帝国内に本邦植物図志を著すべき人は、牧野富太郎氏一人あるのみ」と激賞の言葉を寄せた人物であった。

では、なぜ、二人は対立したのだろうか。

富太郎はエッセイで、松村から敵意をもたれるようになった理由の1つとして、松村夫人から勧められた縁談を断ったことを挙げている。

富太郎の妻・壽衛は、結婚直後に一時的に実家に帰っていた。そのとき富太郎は松村夫人から、縁者の娘と結婚するように頼まれた。これは松村夫人が、富太郎を身内にして、松村の手助けをさせようと考えていたからだと、富太郎はエッセイで語っている。

しかし、この縁談を富太郎は退けた。夫人は大変に気分を害し、松村が富太郎を嫌うように仕向けたという。

富太郎の自叙伝には、松村が富太郎に「嫉妬」していたともある。

富太郎は助手となった明治26年に、京都府、愛知県、岐阜県、滋賀県、高知県、翌明治27年(1894)に京都府、愛知県、滋賀県、静岡県と、大学の命を受け、各地で植物採集している。それらの研究成果は優れた論文となって、彼が立ち上げた『植物学雑誌』に、次から次へと発表された。

富太郎の自叙伝によれば、これが、松村の気に障ったようだ。

富太郎は松村から、「君はあの雑誌に盛んに論文を出しているようだが、もう少し自重したらどうだ」と釘を刺されたという。

富太郎も松村も、どちらも専門は分類学である。同じ分野を研究する富太郎が、誰憚ることなく研究の成果を続々と世に送り出していくのが面白くない――すなわち、嫉妬していた、と富太郎はいうのだ。

確かに、このころの富太郎の植物学教室での活躍ぶりはめざましく、松村が脅威を感じたとしても不思議ではない。しかし、松村が富太郎を憎むようになったのは、他にも理由があったと考えられている。

富太郎は、松村に釘を刺されても研究の成果を発表し続けた。

「松村教授の下で働いているとはいえ、師弟関係があるわけではない。気兼ねする必要も、学問の進歩を抑える理由もない」というのが、富太郎の理屈であった。

しかし、これは富太郎の大きな考え違いである。富太郎は松村の助手として採用されたのであり、助手にとって、教室の教授は指導者であるのだから。

また学問的意見に相違があれば、富太郎は教授である松村に対しても、けっして自分の主張を曲げなかった。松村の植物名を訂正したこともあったという。

自叙伝や残された手紙によると、富太郎は自分の意見を主張する際に、歯に衣を着せぬところがある。松村の面目を潰すような、無遠慮な物言いもあったのかもしれない。

こうして、二人の間の溝は次第に深まっていったと考えられる。松村は富太郎に絶えず敵意を示し、批判し、圧迫するようになったという。

そのなかで、富太郎が最も困ったのは、給料を上げてもらえないことであった。上がらない給料に加え、富太郎の無計画な散財によって、牧野家は経済的困窮へと追い詰められていく。

 

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