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「甲斐」が家康の天下取りを支えた? 戦国最強・武田軍と徳川の深い関係

2023年07月31日 公開

歴史街道編集部

甲府盆地
右左口宿の観音堂から 甲府盆地を望む

徳川家康が甲斐平定のために布陣した地、家康や徳川家と縁のある寺、徳川家と戦国最強・武田軍団とのつながりを感じさせる場所...。山梨県といえば武田家だが、家康に注目して訪ねると、知られざる歴史に触れることができる。山梨県内の家康ゆかりの地を、歴史街道編集部が案内しよう。

 

甲斐に入った家康

敬泉寺
敬泉寺

徳川家康は、まさにここで「どうする」と思案したのかもしれない...。

そんなことを感じさせてくれるのが、甲府駅から車で30分ほどのところにある右左口宿(うばぐちじゅく)である。この地は、甲斐と駿河を結ぶ中道往還の要衝で、家康と山梨県の関係を考える上で極めて重要だ。

というのも、天正10年(1582)の武田家滅亡の際、甲斐から駿河経由で安土に帰る織田信長のために、家康がこの地を整備したとされるからだ。

さらに本能寺の変後に旧武田領の争奪戦が起きると、家康は甲斐を平定すべく、この地に入って情勢をうかがったという。

右左口宿にある敬泉寺(きょうせんじ)一帯は、当時の逸話に彩られている。寺の山側にある観音堂からは甲府盆地を一望できることから、徳川軍の見張りの兵が置かれていたという。また寺の南側には「東照神君御殿場跡」の碑が立ち、ここに家康が本陣を構えたとされる。

東照神君御殿場跡
「東照神君御殿場跡」の碑

右左口の人々は家康を敬い、いまも神君と呼んでいるそうだ。それは当時、家康が右左口の人々のもてなしに感謝し、商業活動の特権を認める朱印状を出したからだ。以来、右左口は商業の町としても宿場町としても栄えた。

右左口宿を歩くと、蔵造りの建物も目に入ってきて、宿場町の面影を感じさせてくれる。

右左口宿
右左口宿。蔵が見え、宿場町の面影を残す

右左口に滞在した家康はその後、甲府に入り、さらに信濃方面から甲斐に進軍してきた北条氏直軍と対峙すべく、かつて武田勝頼が築いた新府城に陣を布いた。

新府城跡は右左口から車で40分ほど、最寄り駅の新府駅からは徒歩15分だ。城跡には土塁や堀などの遺構が残っており、武田家時代や徳川軍が布陣した際の様子を想像しながら歩くのもいいだろう。

この城に拠った家康は、劣勢ながらも北条軍の大軍を食い止め、和睦に持ち込むことに成功した。その結果、家康は三河・遠江・駿河に加え、甲斐と信濃の一部も治める大大名となったのである。

この戦いの最中、武田家の遺臣が数多く家康に味方している。家康が武田の城に拠って、その遺臣とともに北条軍と戦ったと思うと、その飛躍の裏に、武田家の存在を感じずにはいられない。

新府城跡
新府城跡

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