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アテルイと坂上田村麻呂と清水寺

2015年05月19日 公開

歴史街道編集部

清水寺のアテルイ石碑

アテルイについては、高橋克彦先生の長編歴史小説『火怨~北の耀星アテルイ』や、NHKのドラマなどでご存じの方も多いと思います。私も『火怨』を夢中になって読み、『炎立つ』『天を衝く』『風の陣』などの奥州を舞台とした作品を読み漁りました。

今回はアテルイと坂上田村麻呂と、京都の清水寺についてのお話をさせていただきます。

アテルイは、京都の朝廷から蝦夷征伐に派遣された坂上田村麻呂などと戦いを繰り広げた、蝦夷の軍事的なリーダーでした。

詳しい記録が残っているわけではなく、また敗者としての処遇からその人物像は伝わっていません。しかし、数万にも及ぶ強大な朝廷軍の攻撃を十数年に亘って凌いだ武勇と智略は、相当なものであったことは間違いないと思います。

アテルイの戦いぶりが初めて記録に現われるのは、延暦8年(789)、征東将軍紀古佐美の遠征軍との「巣伏の戦い」です。アテルイたちは地形を巧みに利用し、遠征軍を分断して撃退します。朝廷がしばらく遠征軍を送れなくなるほどの大勝利でした。

その後、新たに派遣された大伴弟麻呂と坂上田村麻呂の遠征軍との戦いで、アテルイたちは敗退を重ね、坂上田村麻呂が延暦21年(802)に胆沢城を築いたことが決定打となり、アテルイは副将格のモレと500人の兵士とともに投降したとされます。

田村麻呂と共に京都に送られたアテルイとモレは、田村麻呂の恩赦の願い出にも関わらず、河内国で処刑されたと伝わります。

小説などでは、アテルイと田村麻呂がお互いの武勇を認め合い、友情を育む様子が描かれます。実際に田村麻呂がアテルイの助命嘆願をしたことからみて、二人に心の交流があったと思えてなりません。

アテルイが降伏する際に、500人の兵士が行動を共にしたとされていますが、これは刀折れ矢尽きての降伏ではないように感じられます。これは、理不尽に自分たちが暮らす地を蹂躙しようとする朝廷側に対して、自らの誇りと思いを吐露すべくあえて捕虜となって都へ上った…私にはそんな風にも思えます。

アテルイとモレが処刑されたのは、現在の大阪府枚方市牧野付近といわれていて、ここにアテルイの墓といわれる首塚があり、他にも胴塚があるなど、はっきりしたことはわかっていません。

そんなことから、岩手県の有志の方が、1994年に京都の清水寺に慰霊碑を建立しました。

清水寺は、奈良時代末に延鎮上人によって開基されたと伝わります。この延鎮に鹿の狩りに来ていた坂上田村麻呂が出会い、殺生を戒められて改心して妻とともに観音に帰依して仏堂を寄進したとされます。このことから、清水寺は延鎮上人を開山、坂上田村麻呂を本願としています。

この縁から、アテルイとモレの慰霊碑が清水寺に建つことになったのです。時代を超えて、二人の友情がもたらしたともいえる碑は、アテルイの心をきっと慰めることでしょう。

清水寺に行くことがあっても、この慰霊碑はつい見逃してしまいがちです。本堂の清水の舞台を降りて、音羽の瀧から少し戻ったところにあります。今度、清水寺に参拝される際は、ぜひお立ち寄りください。(立)

写真は清水寺の慰霊碑です。

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