歴史街道 » 編集部コラム » 西南戦争~なぜ、西郷隆盛は戦ったのか

西南戦争~なぜ、西郷隆盛は戦ったのか

2017年09月23日 公開
2023年04月17日 更新

9月24日 This Day in History

西郷隆盛

西郷自刃。日本最後の内乱・西南戦争が終結。

今日は何の日 明治10年9月24日

明治10年(1877)9月24日、西南戦争における最後の戦い、城山総攻撃が行なわれ、西郷隆盛が最期を遂げました。西郷に従っていた村田新八、桐野利秋、辺見十郎太、別府晋介ら西郷軍幹部も、戦死あるいは自刃しています。
 

「王道」と「覇道」

『文明とは道の普〈あまね〉く行はるるを賛成せる言にして、官室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華を言ふには非ず』(『南洲翁遺訓』)。

明治4年(1871)、西郷に留守政府を任せて、岩倉具視、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文らは欧米歴訪に出かけます。西郷は生涯、外国の土を踏みませんでしたが、西洋文明の本質は良く理解していました。すなわち「覇道」です。

真の文明国であるならば、後れている国に徳をもって接し、導く。それが「王道」の政治というものである。一方で武力にものを言わせてアジアを侵略し、植民地化する西欧のやり方は、己の利のために他を踏みつけにする野蛮な「覇道」でしかない、というものでした。そして、新生明治日本は「王道」を目指すべきであると考えるのです。

その考え方に沿えば、明治6年(1873)のいわゆる「征韓論(遣韓論)」で、西郷が何を目指していたかはおのずと明らかでしょう。

鎖国攘夷・排日政策をとる李氏朝鮮に対し、西郷は征韓(武力発動)など口にしていません。自分が礼を尽くし、大使となってきちんと対話すれば、その誠意は通じると信じていました。それが「王道」政治であるからです。

ところが欧米から帰国した歴訪組は、西郷の訪朝を謀略で阻止します。もし西郷が殺されでもしたら戦争は避けられず、今の日本にそんな余力はないというのが理由ですが、西郷からすれば「王道」政治の何たるかを忘れ、功利的な「覇道」に走っているように見えたかもしれません。

少し後に、明治天皇は欧化に走る政府に、日本本来の良さである和の心、仁義忠孝が蔑ろになっていないかと苦言を呈されますが、西郷と心を通わせていた明治天皇も同じ危惧を抱かれていたのでしょう。

維新後、明治政府は断髪、廃刀をはじめ欧化政策を進めますが、かたちばかりの西洋の真似をする余り、武士道に根ざす大切にすべき日本人の心を置き去りにしがちであることを、西郷は苦々しく思っていたはずです。「これが、自分たちが幕末以来目指していたあるべき政治の姿なのか」と…。

征韓論に敗れて下野した西郷は、郷里の鹿児島に戻り、後進の育成にあたります。西郷が下野した時、多くの薩摩出身者が官を辞して従おうとしますが、西郷は中央で働いた方が良いと思う者は、言い含めて東京に残しました。

そして鹿児島では、私学校で若者たちに文と武と農を教えていきます。正しい日本人の心を持った若者を育成し、将来の日本を託すに足る人材とするためでした。西郷は、あくまで日本のためになることをすべきと常に考えています。各地で起こる不平士族の叛乱に同調しないのも、当たり前のことでした。

桜島
城山展望台より桜島を望む
 

西郷の真意はどこにあったのか

しかし明治政府は、西郷と私学校の存在を怖がりました。そして鹿児島の弾薬庫から火薬類を秘密裏に搬出し、また状況偵察と謀略のために24名の警察官を潜入させます。これが私学校の若者たちを「姑息な手段」と激昂させ、弾薬庫襲撃につながりました。

襲撃の知らせを受けた西郷は「ちょしもた(しまった)」と叫んだといわれます。これで政府への反逆を問われても仕方がなくなり、また政府への不満を抱く鹿児島士族の面々にも火をつけてしまったからでした。

その後、桐野利秋や村田新八、永山弥一郎、篠原国幹らを中心に、政府問罪のための軍を起こすことに決しますが、西郷は以後、全く主体的に関わろうとはしません。

そのために西郷の意図が奈辺にあるのか読みづらいのですが、極端な話、もし挙兵を阻止するつもりであれば、西郷が腹を切って慰撫すれば済んだかもしれず、また本気で戦うのであれば、長崎で軍艦を奪うなり、いくらでも方法はありました。しかし、西郷は沈黙したまま、旧式の装備のまま鎮台軍が待つ難攻不落の熊本城に攻めかかるのです。

少なくとも西郷は、政府軍を破って内乱を大きくしようとは思っていなかったのでしょう。維新の際、江戸無血開城まで実現させた西郷が、内乱の無益さを知らないはずがありません。

では、勝つつもりもなく、政府軍と戦う西郷の狙いとは何であったのか…。以下は全くの想像ですが、西郷は真の日本武士の戦いぶりというもの、日本人が忘れてはならない心を、世に示そうとしたのではないでしょうか。

征韓論といい西南戦争といい、発端は政府の謀略と「覇道」的発想でした。西郷は薩摩武士の恐るべき白兵戦によって新式銃を装備した政府軍を随所で破り、その「覇道」的発想や謀略がいかに高くつくものか、そして正しい武士道の強さ、大切さというものは、決して「覇道」的な武力では沈黙させられないことを、政府高官たちの心胆を震え上がらせることによって思い出させ、日本人の目に焼き付けたかったのではないか、そんな風にも思えるのです。

半年余りの九州各地での激戦の末、9月24日の明け方、城山で股と腹部に銃弾を受けた西郷は、正座して東方に遥拝した後、別府晋介に介錯させました。享年51。

明治天皇は西南戦争終結直後、宮中の歌会で「西郷隆盛」という題を出しています。「これまでの西郷の功績は極めて大きなものである。この度の過ちでその勲功を見過ごすことがあってはならない」というご意向でした。明治天皇には、西郷の心が伝わっていたのかもしれません。

歴史街道 購入

2024年4月号

歴史街道 2024年4月号

発売日:2024年03月06日
価格(税込):840円

関連記事

編集部のおすすめ

西郷隆盛はなぜ、西南戦争に敗れたのか

瀧澤中(作家/政治史研究家)

西郷隆盛と大久保利通、それぞれのリーダーシップ

童門冬二(作家)
×