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武田勝頼の最期と真田昌幸の決断

2016年01月17日 公開
2023年03月09日 更新

『歴史街道』編集部

 

勝頼に従い、武田の意地を見せた男たち

 

天正10年(1582)2月、織田軍が武田領に侵攻。信長による朝廷工作で武田勝頼は「朝敵」とされ、さらに凶兆とされる浅間山の噴火もあり、武田家臣たちは激しく動揺しました。武田の一族縁者からも、次々と織田方に内通する者が現われます。

戦国最強を謳われた武田家が瓦解を始める中、しかしあくまで勝頼に従い、武田武士の意地を見せた男たちもいました。

まず、高遠城に拠って織田軍相手に徹底抗戦したのが、勝頼の異母弟・仁科五郎盛信です。2月末、織田信忠率いる5万の兵に包囲され、降伏勧告を受けますが、仁科はこれを峻拒。「当籠城衆は一命を勝頼の武恩に報いる覚悟。不義臆病の輩と一緒にすべからず。早々に馬を寄せられよ。信玄以来鍛錬の武勇のほど、お目にかけよう」。

織田軍の総攻撃は3月2日に始まり、仁科は3000の将兵で果敢に迎え撃ちます。中には自ら得物をとって戦う武将の奥方もいて、見事な戦いぶりを示した末、士卒ことごとく壮絶な討死を遂げました。

高遠城が落ちると、武田一族の重鎮・穴山梅雪が徳川に内通。織田軍の接近に武田勝頼は本拠の新府城を捨て、一旦は真田昌幸の勧める上州岩櫃城に向かう気になりますが、小山田信茂らの進言や浅間山噴火もあり、方針を変えて小山田の居城・岩殿城に向かいます。

ところが土壇場で小山田は裏切り、道を塞いで勝頼一行を通さず、鉄砲を撃ちかけました。進退窮まった勝頼は、激減して僅か40余名となった従者ともに、かつて室町時代に武田信満が自刃した天目山(木賊山〈とくさやま〉)に向かうのです。

3月10日、天目山麓の田野にいた勝頼一行のもとを、一人の男が訪れました。小宮山内膳〈こみやまないぜん〉といい、勝頼の勘気を蒙って蟄居中の身でしたが、主家を見捨てるのは不義理であるとして、運命を共にすべく駆けつけたのです。勝頼の側近たちは小宮山の忠義に感激し、泣いたといいます。

しかし翌3月11日、ついに最後の時が訪れました。滝川一益配下の織田の精鋭5000が、勝頼一行の前に現われたのです。僅か40余名の手勢ですが、勝頼に従う者たちは、織田軍と戦う道を選びました。諸説あるものの、秋山紀伊守や安倍加賀守らは、敵を数度撃退したといわれます。

特に土屋昌信は断崖に立ちはだかり、蔓を握ったまま、迫りくる織田兵を片手で次々に斬って谷底に落としました。「片手千人斬り」といわれる伝説が残るほどの奮戦であったといわれます。

武田勝頼の最期は定かではないものの、こうした家臣たちが奮戦して時間稼ぎをしている中、自刃します。嫡子の信勝、また北条家から嫁いでいた夫人も自害し、武田家はここに滅びました。多くの家臣に裏切られながらも、一方で最後まで付き従う忠臣たちもいたことは、勝頼へのせめてものはなむけだったというべきでしょう。

 

真田昌幸の決断と謀略

 

一方、岩櫃城で勝頼の訃報に接した真田昌幸は悔し涙を流したといわれますが、悲しんでいる暇はありません。武田家という巨大な後ろ盾をなくした真田家は、信州小県から上州吾妻、沼田を領する国衆となりました。この真田領をいかに守るかに、知恵を絞らなければならないのです。

実は昌幸は、勝頼の死よりも以前から、北条と交渉をしていました。今夜のドラマでも少し触れていましたが、これは武田への裏切りではなく、気脈を通じる素振りを見せながら、あらゆる可能性を探っていたと見るべきなのでしょう。

3月12日付の北条氏邦(北条氏政の弟)が昌幸に宛てた手紙があります。そこには「このたびの武田家のなりゆきは是非もないことだ。あなたのところへ箕輪(上州箕輪城主・内藤昌月〈まさあき〉)からも連絡がある筈である。北条家に忠信を尽くすのは今である」と、昌幸の北条家への随従を勧めています。

内藤昌月は信濃の保科正俊の子で、内藤昌秀の養子。武田家の上野支配の奉行の一人として活躍しましたが、この時期、昌幸よりも早く北条家に帰順しており、北条氏邦は内藤を窓口にして、真田昌幸をも帰順させようとしていたのでしょう。

しかし、昌幸にやすやすと北条に従う気はなく、一つの駆け引きとして交渉を行なっていました。というのも、昌幸はここで謀略を仕掛けた節があるのです。

『加沢記』によると、昌幸は「織田軍は次に小田原と越後に攻めかかる」という風聞を流しました。実際に織田軍は、すでに上杉領を攻撃しています。また織田と協力関係にある北条も、信長の前では決して安泰ではないという揺さぶりをかけたのでしょう。

その上で昌幸は、上杉と北条の両方に援兵を請う密書を送りました。つまり上杉・真田・北条が一丸となって、織田に対抗しようと持ち掛けたのです。

しかし、これもまた昌幸の本心ではありませんでした。昌幸はこの密書を、わざと織田方の手に落ちるように仕向けたのです。実際、密書を手にした織田信忠は驚きました。「北条、上杉、真田が同盟を結べば、面倒なことになる」。

そこで織田方は、昌幸の懐柔に乗り出します。実はこの織田方からの接近こそが、昌幸の狙いでした。もとより昌幸は、織田への従属を決断していたのです。しかし、どうせ従属するのであれば、できるだけ自分を高く売りつける、そのための謀略でした。

相手に自分を高く売りつけるという昌幸の姿勢は、まさに彼の「基本姿勢」であり、これから何度も現われてきます。昌幸のしたたかさともいえますが、こうしなければ真田領を死守できなかったのも事実です。そして昌幸の戦いは、まだ始まったばかりでした(辰)

 

 

 

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