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真田昌幸・信尹兄弟の謀略と碓氷峠遮断

2016年03月06日 公開
2023年03月09日 更新

『歴史街道』編集部

北条と徳川の戦いと碓氷峠遮断

天正10年8月6日、北条氏直は2万ともいわれる大軍を率いて甲斐に侵攻、若神子〈わかみこ〉城に本陣を置きます。一方、北条軍の半数以下の徳川家康勢は、新府城とその北の能見城に布陣、守りを固め、以後、諸方で小競り合いが起こりますが、数で優る北条軍が劣勢でした。

この状況に業を煮やした小田原の北条氏政は、別働隊1万を甲斐に派遣し、息子・氏直の本隊とともに徳川勢を挟撃する作戦を実行します。別働隊は御坂〈みさか〉峠の御坂城を拠点とした上で、8月12日に甲斐に侵攻、徳川勢の背後を衝こうとしました。

これに対し迎撃に出た徳川勢は僅か1500でしたが、黒駒付近の各所に兵力を分散していた北条軍を各個撃破していき、北条軍別働隊に壊滅的打撃を与えます。黒駒の合戦でした。

別働隊を破った徳川勢ですが、しかし眼前の北条軍本隊は健在であり、その後も睨み合いが続きます。一方、同じ頃、佐久の三澤小屋で北条勢相手に孤軍奮闘していたのが依田信蕃〈よだのぶしげ〉でした。しかし兵糧の欠乏に苦しんでいた依田は、形勢逆転の鍵を握るのは、小県の真田昌幸を味方につけることであると考えます。依田は昌幸に使者を送りました。

また北条軍の背後にいる真田昌幸の存在には、徳川家康自身も注目していました。そうした中で、にわかに注目を浴びたのが、徳川家に拾われた昌幸の弟・信尹です。信尹は家康の意を受けて、兄・昌幸と交渉を行ないますが、事前に兄弟の間で打ち合わせ済みであったことはいうまでもありません。

徳川家と領地・恩賞に関する諸条件を取り決め、家康の起請文も得た昌幸が、北条家との正式な手切れを公にしたのは10月10日のこと。家康は信尹の交渉をねぎらい、昌幸を味方にした功を大いに賞賛、信尹は徳川家中で大いに株を上げることになりました。

また10月19日までに、北条氏直に手切れを通告した真田昌幸はすぐに行動を起こします。まず昌幸は小県における北条方の禰津昌綱を攻め、続いて依田信蕃と協力して北条軍の小荷田隊を襲い、補給路を遮断。碓氷峠を封鎖して、若神子城の北条本隊を枯渇させる作戦でした。ドラマでは、これを信繁の発案としていました。

真田昌幸や依田信蕃らの働きで、佐久郡はほとんどの北条勢力が一掃され、北条軍は補給がない上に退路まで断たれるかたちとなります。ここに至り、10月20日頃に北条氏は徳川家康に講和を持ち掛け、10月29日に両家の講和が結ばれることになりました。

これをもっていわゆる「天正壬午の乱」は終息を迎えますが、しかし真田昌幸についていえば、戦いはむしろこれからでした(辰)

 

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