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小田原攻めの本当の理由と、石田三成の忍城攻めの真相

2016年06月13日 公開

歴史街道編集部

 

石田三成は「戦下手」だったのか

 

さて、小田原征伐のワンシーンである忍城攻めといえば、最近では「のぼうの城」(小説及び映画)が話題になり、比較的一般にも知られるようになりました。

そして、秀吉の小田原征伐で唯一落城しなかった城として忍城がクローズアップされればされるほど、水攻めに失敗した石田三成の「戦下手」のイメージも定着することになります。

低湿地に築かれた難攻不落の忍城を攻めるべく、三成が秀吉の命を受けて赴いたのは、天正18年(1590)6月のことでした。大河ドラマでも、三成が地形を見て、長大な堤防を築いて水攻めを行なうことを主張するシーンが描かれていました。

しかし、三成が本陣を置いた丸墓山から忍城を見れば、周囲は全く平坦で、自然の堤防にできるものはなく、忍城付近は若干高くなっています。ということは、堤防を築いて城を水没させるには、相当な大工事が必要になるということです。

これを見た三成が、それでも「水攻めがよい」と判断したのであれば、彼は「戦下手」のそしりは免れないかもしれません。しかし、実際はそうではなかったようです。

三成が着陣直後に発した書簡の中に、「諸将たちは最初から水攻めと決めてかかっているので、城に積極的に攻めかかろうとせず、困っている」という内容が書かれているのです。つまり、三成自身が水攻めをするつもりではなかったと受け取れるのです。

三成以外で、忍城水攻めを命令できる者は、当然ながら秀吉しかいません。三成は現場を見ていない秀吉の命令に従って、困難な築堤工事に臨み、水攻め失敗の汚名をこうむった可能性が高いのです。

秀吉にすれば、瞬く間に大規模な土木工事を行なって難攻不落の城を水没させ、一兵も損なうことなく城を落として見せることは、関東・東北の諸将に対して秀吉の実力の強大さを印象づける格好のパフォーマンスであったのでしょう。

しかし、現場を知らない秀吉の命令は、土台無理な注文でした。三成は水攻めを無理強いされ、結局、失敗。「戦下手」のレッテルを貼られてしまいました。三成は、むしろ被害者だったというべきなのかもしれません(辰)

写真は現在の小田原城天守

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