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平泉の奇跡~藤原清衡と「万人平等」の志

2011年08月11日 公開
2023年10月04日 更新

高橋克彦(作家)

いかにして、「万人平等」に思い至ったのか

では、藤原清衡はなぜ、当時すでに忘れ去られていた「現世浄土」に思い至ったのでしょうか。それには、清衡の人生が大きく影響しています。

彼の父は、京都の藤原氏に連なる国府の役人・藤原経清で、母は奥州の豪族・安倍貞任(あペのさだとう)の妹でした。しかし康平5年(1062)、経清と貞任の安倍勢は、源氏率いる朝廷軍と奥州豪族・清原氏の連合軍に敗れて滅亡(前九年の役)。その結果皮肉にも、清衡の母は戦利品として清原氏に再嫁させられ、当時7歳の清衡も、清原の子として育てられることになるのです。

仇敵のもとで育てられる清衡は、人質に等しいものでした。しかも清原氏には真衡という正室の子がいて、清衡が世に出る機会は絶たれたも同然です。ところが、真衡が家督を継ぐと内乱が起き、清衡は異父同母弟の家衡とともに挙兵します(後三年の役)。そこへ、奥州支配を目論む源義家が介入し、清衡と家衡は瞬く間に降伏に追い込まれました。

その直後、幸運にも真衡が急逝します。義家の裁定により、清原氏の領地は清衡と家衡で分割する事になりました。とはいえ、異父弟で清原氏の血をひく家衡には、この裁定が不服でした。家衡は清衡の居館を急襲し、清衡は間一髪で逃れますが、妻子一族を殺害されてしまいます。これをうけ、源 義家が再び介入し、清衡を助けるかたちで家衡を滅ぼしました。ここに後三年の役は終結し、源氏の奥州支配も成ったかに見えましたが、清衡にまたも幸達が舞い込みます。源氏の勢力拡大を恐れた朝廷は、義家を陸奥守から解任。義家は失意のうちに帰京することになり、図らずも清衡が奥州の統治者となったのです。

この生涯をみれば分かるように、清衡が奥州の統治者になるのは、それこそ百万分の一の確率にも等しい僥倖でした。しかも争乱の間、清衡は戦国大名のように勢力拡大を狙って戦ったわけではなく、また、戦場における武勇伝もほとんど残されていません。さらには、人質に等しい生活を送っていましたから、帝王学を学ぶことも無かったでしょう。つまり、清衡はもともとリーダーシップを発揮するような人物ではなく、期せずして流されるようにして統治者となったといえるのです。

もちろん血脈からいえば、藤原氏と安倍氏の血を引く清衡は、奥州の統治者たるに相応しい人物です。しかし清衡自身は、自分がその地位につくことは夢想だにしなかったはずです。滅びた家の者として虐げられ、僥倖の末に生き残ったのですから。そして清衡は「自分は偶然、統治者となっただけだ」と思うと同時に、前半生で苦労した分民の苦しみを身近に共感することができたのでしょう。だからこそ、統治者にもかかわらず「万人平等」の国をつくるという志をち得たのです。つまり平泉とは、清衡あってこそのものなのです。

ただ、清衡が「万人平等」に思い至ったのは、東北人にその素地があったからともいえます。東北人は古来、日本列島に住んでいた和人であり、渡来系の弥生人から逃れて東北に移り住みましたが、彼らはその名の通り、和を重んじる人々でした。そうした東北人の気質がある中で、政治理念として初めて「万人平等」を掲げたのが清衡だったのです。

 

藤原清衡の秘めた狙い

「万人平等」というと、いかにも理想主義のように思われるかもしれません。しかし、清衡は理想主義者ではなく、むしろ恐るべき政治家でした。清衡の望む「万人平等」の国は、極論すれば仏教に頼らずとも、善政を敷けば達成できるものです。にもかかわらず、清衡が「浄土思想」を軸にしたのはなぜか。私はそこに、清衡の卓絶した戦略を垣間(かいま)見ます。

清衡が望むのは、あくまで奥州の平和です。しかし「我々は戦わない」と主張したところで、敵が攻めてくれば戦わざるを得ません。そこで清衡は、相手が攻めるのを躊躇(ためら)うほどの軍備を整えようとしたはずです。

実際、秀衡の時代には「十七万騎」と称される強大な兵力を誇り、日本最強の騎馬軍団と畏怖されていました。だからこそ源頼朝は源平合戦の最中、ひたすらその存在を恐れ、常に鎌倉にあって藤原氏に備えたのです。

そして仏教もまた、それだけの強大な軍事力を得るために必要だったのです。当時、仏教は最先端の技術と知識の結晶でした。寺院を建造し、仏像をつくるには、最新の建築技術や工芸技術が必要です。そして、最先端技術が兵器に応用されるのは、いつの時代も同じです。平泉でも、最先端の技術を活かして、優れた甲宵(かっちゅう)や武器を生み出していたことでしょう。また仏教の僧侶は、当時において最高の知識人です。彼らは国を富ませるための叡智だけでなく、国を保つための戦略を提供してくれる存在でした。戦国時代、多くの大名が僧侶をブレーンとしたことからも、それが窺えます。つまり清衡にとって、仏教文化を振興することは、「万人平等」の志を浸透させると同時に、敵の侵攻を防ぐ軍備と戦略を得ることにも通じたのです。

ただし、理由も無く仏教を振興しようとしても、朝廷は認めないかもしれません。そこで清衡は、先ほど紹介した中尊寺落慶供養願文の冒頭にこう謳っています。

「中尊寺は日本国のための国家鎮護の大伽藍であり、白河上皇、鳥羽院、崇徳天皇の息災長寿を祈る御願寺にする」

すなわち奥州のためではなく、日本の鎮護のために、平泉に中尊寺を建立したと述べているのです。国家鎮護の寺である以上、朝廷は建立を認めざるを得ません。こうして朝廷の公認を得た上で、清衡は中国・宋との直接取り引きで5千3百余巻もの経典を輸入しているのです。宋の経典があれば、それに接したいと都から多くの僧侶が集まります。実際、平泉には数千人もの僧侶が京からやってきたといいます。

このようにして清衡は、合法的に軍備と知識を平泉に集積することに成功しました。そしてそれが平泉に豊かさをもたらし、最盛期には、京都、博多に次ぐ日本を代表する大都市として繁栄することとなるのです。

平泉はともすると、奥州特産の名馬と黄金によって繁栄したと見られがちです。しかしその背景には、「万人平等」という高い志と、なおかつ、それを果たすための現実的な戦略があったことを知っておくべきでしょう。
 強力な軍備を養いつつ、百年の平和を保った平泉。その存在は、現在のスイスに近いものと言えるかもしれません。中世にこれだけの「理想国家」たり得た平泉は、世界史上の奇跡といっても過言ではないのです。

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