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広瀬武夫少佐が戦死~日露戦争第二次旅順港閉塞作戦

2017年03月27日 公開
2019年02月27日 更新

3月27日 This Day in History

広瀬武夫

今日は何の日 3月27日

日露戦争第二次旅順港閉塞作戦

明治37年(1904)3月27日、日露戦争の第二次旅順港閉塞作戦において、広瀬武夫少佐が戦死しました(戦死後、中佐)。 遼東半島の旅順港を根拠地とするロシア太平洋艦隊(旅順艦隊)。これに手を焼く日本海軍の連合艦隊は決戦を望むものの、旅順艦隊は容易に港から出てきません。というのも旅順港周辺は要塞化され、近づく敵を強力な沿岸砲台で攻撃できるからで、港内にいれば安全だったのです。しかも本国からバルチック艦隊が回航される予定で、その合流を待てば連合艦隊を圧倒することが可能でした。連合艦隊としては、バルチック艦隊が現われる前に旅順艦隊を無力化させなければなりません。そこで採った戦法が、港内から出てこない敵を逆手にとり、港湾の狭い入り口を沈船で塞いで閉じ込める閉塞作戦でした。

この作戦は秋山真之参謀が米西戦争を観戦した際の、サンチャゴ閉塞作戦が参考になったといわれます。しかし夜陰にまぎれて港湾の入り口に古い輸送船を沈め、脱出するのは至難の業でした。要塞は強力なサーチライトを備え、夜間も厳重に警戒していたからです。それでも2月24日未明、第一次閉塞作戦が実施されますが、敵に発見されて猛攻を受け、失敗に終わりました。その後、敵の機雷によって虎の子の戦艦二隻を失った連合艦隊は、3月27日、第二次閉塞作戦に踏み切ります。この時、閉塞船「福井丸」を指揮したのが広瀬武夫少佐でした。

豊後竹田出身の広瀬は、柔道を得意とする腕っ節の強い海軍軍人で、後輩の秋山真之とは一時同居するほど気の合う仲でした。その一方で早くから将来ロシアと戦うことを予測し、ロシア語を学びます。そしてロシア留学と駐在でロシアの実情を調べる一方、貴族とも親しく交流し、アリアズナという恋仲の女性もいたことが知られています。彼は親友となったヴィリキツキー少尉候補生にこう語っています。「不幸にもロシアと日本が砲火を交えた時は、互いに祖国のために全力で戦い抜こう。しかし我々の友情は友情として、生涯大切にしたい」。ロシアの人々と真摯に交わった広瀬らしい言葉です。 第二次作戦時も初回同様、敵に発見され、沿岸砲の猛攻を受けます。広瀬は福井丸を爆破する準備をして船を離れる時、カッターに部下の杉野上等兵曹がいないことに気づきました。広瀬は一人福井丸に戻り、船内を三度も往復して探しますが見つからず、やむなく部下たちを指揮してカッターを出した時、砲弾の直撃を受けて戦死しました。享年36。

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