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大村益次郎~火吹き達磨の超合理主義

2017年05月03日 公開

歴史街道編集部

大村益次郎

今日は何の日 文政7年5月3日

日本陸軍の祖・大村益次郎が誕生

文政7年5月3日(1824年5月30日)、大村益次郎が生まれました。長州藩の医者で西洋兵学者、日本陸軍の祖としても知られます。

私事ですが学生の頃、夏休みに友人と岡山から下関に向かって歩いていた時、山口県内のたばこ屋さんの前で休憩し、30円(当時)のアイスキャンディーを買ってのどかな風景を見ながら座り込んでいると、店のおじさんが外に出てきて、少し話しをしました。そしておじさんが「あんたらは知らんじゃろうが、この辺は鋳銭司(すせんじ)といって、昔は和同開珎という銭を作っていたところじゃ。明治維新の時には大村益次郎が出たがのう」と言うので、「あの大河ドラマ『花神』の大村益次郎ですか。滅茶苦茶有名人じゃないですか」と言うと、喜んだおじさんが、缶コーヒーを手渡してくれた思い出があります。

周防国鋳銭村の村医・村田家に生まれた益次郎(村田良庵、蔵六)は医学や蘭学を学び、天保14年(1843)、20歳の時に豊後日田の広瀬淡窓の咸宜園に入門。1年ほど漢籍、算術などを学び、弘化3年(1846)春、23歳で大坂に出て、緒方洪庵の適塾に学びました。ここで福沢諭吉や大鳥圭介らと知り合い、3年後の嘉永2年(1849)には塾頭となります。翌年、適塾を退いて郷里に戻り、村医となりますが、夏に村人が「お暑うございます」と挨拶すると、「夏は暑いものです」と答えたとか。虚飾を嫌い、常に合理的に物事を考えた益次郎らしいエピソードとして知られます。

嘉永7年(1854)、31歳の時には宇和島藩に招かれて、蘭学、医学などを教えました。国産の洋式軍艦を建造したのもこの時です。またシーボルトの娘・楠本イネと出会い、蘭学を教えたともいわれます。その後、江戸に出た益次郎は幕府に認められ、蕃書調所や講武所で最新の兵学を教授しますが、その実力を知った長州藩の桂小五郎の計らいもあり、万延元年(1860)、37歳で正式な長州藩士となりました。文久2年(1862)には幕府の要請で、米国人ヘボンより英語と数学を学んでいます。このように益次郎は、当時一流の師のもとで語学力を磨き、最新の西洋知識を吸収するとともに、「超合理主義」とでもいうべき思考法を身につけていきます。

それが遺憾なく発揮されるのは、軍事面においてでした。 文久3年(1863)に長州に戻った益次郎は、藩の兵学校で最新の兵学を教え、翌年に高杉晋作が創設した奇兵隊の指導にもあたりました。一説に高杉が益次郎につけたというあだ名が「火吹き達磨」。異様におでこの出た独特な益次郎の風貌を表現しています。そして慶応2年(1866)、第二次長州征伐が勃発し、四方面から幕府の大軍が長州に迫ると、43歳の益次郎は軍政用掛として石州口の戦いを指揮し、合理的な戦法で幕府軍をことごとく破りました。

その後、大政奉還によって幕府が崩壊し、新政府軍が江戸まで進軍したところで、再び益次郎の出番が来ます。上野の彰義隊鎮圧です。この時も火力を集中して、僅か一日で彰義隊を壊滅させますが、軍議において薩摩の海江田信義に「あなたは戦を知らない」とストレートに言って怒りを買ったことが、おそらく益次郎の命取りとなりました。

翌明治2年(1869)8月、新たな国軍建設の途上で、京都において益次郎は刺客に襲われ重傷を負います。大坂で楠本イネの手当てを受けますが、落命しました。享年45。しかしその「超合理主義」は弟子の山田顕義に、さらに児玉源太郎へと受け継がれていきます。

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