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今楠公・真木和泉守保臣の最期

2017年07月21日 公開

歴史街道編集部

十七烈士の墓、真木和泉

十七士の墓(京都府大山崎町)
禁門の変に敗れ、天王山中で自刃した真木和泉以下十七名の眠る墓。毎年10月には子孫、地元有志らにより慰霊祭が行われる。
 

今日は何の日 元治元年7月21日

真木和泉守保臣が天王山で自刃

元治元年7月21日(1864年8月22日)、真木和泉守保臣が天王山で自刃しました。久留米水天宮の祀官で、尊王攘夷派の指導者として知られます。

文化10年(1813)、保臣は筑後国水天宮の神職の家に生まれました。藩校・明善堂で学び、国学や和歌を嗜んで後、江戸や水戸に遊学し、水戸学に傾倒。『新論』を著した会沢正志斎の影響を受けます。帰藩後、久留米藩士として藩政改革を建白、執政を務める有馬監物の排斥を図りますが失敗し、蟄居を命じられました。弟の養子先・水田天満宮に寄寓し、寓居の山梔窩(さんしか/くちなしのや)で『大夢記』『義挙三策』などを執筆。尊攘運動の理論的根拠を説き、付近の子弟にも教育しました。寓居には筑前の平野二郎国臣や庄内の清河八郎らが訪れ、平野は、保臣の娘・お棹と恋仲になったといいます。

その後、保臣は薩摩藩の大久保一蔵らと、薩摩国父・島津久光を立てて上洛することを計画し、文久2年(1862)、50歳で脱藩。同年に久光が率兵上洛すると、薩摩藩の有馬新七や中山家の諸大夫・田中河内介らと謀り、公武合体派の関白・九条尚忠や、京都所司代・酒井忠義らを討って、倒幕の挙兵を目論みます。しかし保臣らが伏見の船宿・寺田屋に集結しているところを、その動きを察知した島津久光が、奈良原喜八郎らの鎮撫使を送り込み、薩摩藩士同士の凄惨な斬りあいの末に、暴発は未然に防がれました。いわゆる寺田屋事件です。保臣もこの時に捕らえられますが、許されて後は長州藩を頼るようになりました。

翌文久3年(1863)、保臣は再び上洛。長州や土佐などの尊攘派が会した東山の翠紅館会議に参加し、また学習院(公家の学問所)などを通じて献言することで朝廷内にも影響力を及ぼしていました。しかし、薩摩と会津によるクーデター・8月18日の政変によって長州藩が政界から失脚、京都から追放されると、朝廷内の三条実美ら尊攘派の7人の公家も追われる身となりました。保臣も彼らとともに長州に下ります。長州に落ちた七卿は、三田尻の毛利家の御茶屋(招賢閣)に腰を落ち着け、保臣もしばらく滞在しました。その頃の保臣は智将・楠木正成になぞらえられて「今楠公」と呼ばれ、若い志士たちの輿望を集めていたようです。

やがて元治元年6月5日に京都で長州藩などの尊攘派が新選組に捕殺される池田屋事件が起こると、長州藩が暴発。「藩主の冤罪を朝廷に訴える」を名目に、京に攻め上りました。この時の中心人物の一人が保臣です。長州藩は伏見、嵯峨、天王山の3方面から京を窺い、保臣は天王山の軍の中心的存在でした。

7月19日、嵯峨から攻め込んだ軍が御所の蛤御門付近で会津、薩摩藩などと衝突、禁門の変が起こります。天王山の保臣らも京都市内へ向かいますが、戦いは長州藩に利あらず、敗れた長州兵が西へ落ちる中、保臣ら20人ほどの浪士は天王山に戻り、21日、幕府軍の追っ手が迫る中、応戦の末に全員が自刃を遂げました。真木保臣、享年52。

こうした多くの人々の命と引き換えるようなかたちで、やがて維新がもたらされることになります。



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