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死せる孔明、生ける仲達を走らす~司馬懿仲達のその後

2017年08月05日 公開

歴史街道編集部

今日は何の日 嘉平3年8月5日

司馬懿仲達が没

嘉平3年8月5日(251年9月7日)、司馬懿仲達(しばいちゅうたつ)が没しました。三国時代の魏の武将・政治家で、諸葛亮孔明と五丈原で戦い、その後、西晋の基礎を築いた人物として知られます。

「死せる孔明、生ける仲達を走らす」。 健興12年(234)、五丈原で敵と対峙しつつ死に臨んだ諸葛亮孔明は、司馬懿仲達の追撃を退ける最後の策を部下に授けて息絶えました。蜀軍が撤退を開始すると、予想通り司馬懿率いる魏軍が追撃を仕掛けます。ところがそこへ、諸葛亮の乗る車が現われると、計略を恐れた司馬懿は追撃を中止し、軍を退きました。実はその車に乗る諸葛亮は木像であり、司馬懿は亡き諸葛亮にまんまと欺かれたのです。

「三国志」の物語の最後を飾る名場面で、司馬懿は諸葛亮の好敵手でした。また司馬懿はその後、五丈原の諸葛亮の陣跡に赴くと、布陣の見事さに感嘆して「ああ孔明は天下の奇才なり」と、その死を惜しんだともいいます。諸葛亮の享年は54。一方、司馬懿は五丈原の戦いの折、56歳でしたが、蜀の北伐を挫いて後も、彼の生涯はまだしばらく続きました。

五丈原から4年後の景初2年(238)、遼東太守の公孫淵が「燕」国の独立を宣言。司馬懿はその鎮定を命じられ、長駆東に向かい、見事に討伐してのけ、さらに名声を高めます。折から病に臥していた明帝(曹叡)が没すると、幼帝・曹芳の後見役を、曹真の子・曹爽と、司馬懿が務めることになりました。司馬懿の権勢は強力なものとなり、曹氏にとってその存在は脅威となります。そこで曹爽は司馬懿を名誉職に祭り上げる一方、姻戚や同郷者で周囲を固めて、実権を握りました。身の危険を感じた司馬懿は、病と称して出仕しなくなります。1年後、曹爽の手の者が司馬懿の屋敷を訪ね、その様子を探ったところ、司馬懿は侍女が供する粥を口からこぼし、耳も遠い有様でした。齢すでに70。さすがの麒麟も老いたかと誰もが思ったでしょう。

報告を聞いて安心した曹爽は、翌年正月、曹芳らとともに明帝の墓参に出かけます。実は司馬懿は耄碌を装って、この時を待っていました。 参内した司馬懿は皇太后に曹爽の解任を上奏した上で、軍の指揮権を掌握。城門を閉ざして、曹爽らを謀叛の罪で討伐したのです。これによって復権を遂げた司馬懿は、魏の実権を完全に掌握するに至りました。そして、2年後の嘉平3年、司馬懿は本当に病に倒れ、この世を去ります。享年73。

司馬懿から権力を受け継いだ司馬氏は、咸熙2年(265)、孫の司馬炎が曹奐から帝位を譲られて、晋を建国。結果的に司馬懿は、新国家の礎を築いたことになりました。 このため司馬懿を帝位簒奪者と見る向きもありますが、司馬懿本人には建国の意思はなく、むしろ皇帝への忠勤に励み、活躍したがゆえに抑圧の憂き目に遭い、その不条理に一矢を報いたというのが実情であったようです。

司馬懿は死に臨み、息子たちにこう語ったといいます。

「これまで皆がわしのことを謀叛するのではと疑っていたので、わしはあらぬ疑いをもたれぬよう、常に注意を払って生きてきた。わし亡き後は、お前たちはうまく国を治めるよう、慎重に行動せよ」

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