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三船殉難事件~忘れてはならない終戦後の悲劇

2017年08月22日 公開

8月22日 This Day in History

三船遭難慰霊之碑
三船遭難慰霊之碑(北海道留萌郡小平町鬼鹿海岸)
 

今日は何の日 昭和20年8月22日

小笠原丸、第二号新興丸、泰東丸。三船殉難事件

昭和20年(1945)8月22日、すなわち日本が連合国軍に対して降伏を表明した8月15日から一週間後、三船殉難事件が発生しました。日本人としては忘れてはならない事件です。

この日、北海道留萌沖で、樺太からの引揚者(老幼婦女子中心)を乗せた3隻の引揚船が、ソ連の潜水艦に攻撃され、2隻が沈没し、1708人以上もの人々が犠牲となりました。8月15日、日本政府はポツダム宣言を受諾し、降伏文書への調印意思を連合国へ伝達、翌日には各軍へ停戦命令の布告と武装解除を行ないました。これを受けて連合国のアメリカ、イギリスは即座に戦闘行為を停止しましたが、それをまったく無視したのが、8月9日に不可侵条約を一方的に破って参戦したソ連です。十数万もの大軍で満洲に雪崩れ込んだ上、武器を持たない一般人相手に殺戮、暴行、略奪の限りを尽くしたことはよく知られます。

ソ連軍は同時に、北方の樺太、北千島にも攻め込みました。ソ連の狙いは軍事的混乱の中で北海道にまで侵攻し、これを我が物として連合国に認めさせることであったとされます。まさに火事場泥棒的な行為というより他ありません。この状況に日本政府は、樺太の港に船を集め、人々の引揚げを促しました。数万の人々が港に押し寄せる中、大津敏男樺太庁長官の判断で、高齢者・女性・子供を優先することにし、大泊港の小笠原丸、第二号新興丸、泰東丸の3隻の引揚船に分乗させ樺太を脱出、北海道を目指します。

まず小笠原丸(1400t)には約1500人が乗船し、大泊から稚内に到達しました。そこで約半数が下船し、約700人を乗せて小樽に向かう途中、8月22日の午前4時20分頃、増毛沖の海上で国籍不明の潜水艦の魚雷攻撃を受けて、撃沈されます。乗員乗客638名が死亡、生存者は僅か62名でした。なお浮上した潜水艦は、無抵抗の人々に銃撃を加えています。

続いて午前5時13分頃、大泊から約3600人を乗せて小樽に向かっていた第二号新興丸(2700t)が、留萌北西沖に差し掛かったところ、突然に魚雷攻撃を受けました。同船は回避を試みますが、右舷に一発命中します。その直後、二隻の潜水艦が浮上し、銃撃を加えてきました。しかし第二号新興丸は単なる輸送船ではなく、12cm単装砲2門、25mm機銃を連装4基、単装6基を備えた特設砲艦でした。攻撃を加えてくる潜水艦に対し、民間人の協力を得て反撃します。第二号新興丸の攻撃により、潜水艦一隻が被弾し、潜航したものの大量の油が海面に浮いたといわれます。反撃と、通報によって飛来した日本軍の水上偵察機の掩護もあって、潜水艦はそれ以上の攻撃はせず、第二号新興丸は留萌港にたどり着くことができました。 しかし、第二号新興丸の犠牲者数は死者・行方不明者は400余人とされ、遺体が確認できただけで298人であったともいわれます。

そして午前9時52分頃、約780人を乗せて大泊から小樽に向かっていた泰東丸(880t)が、留萌小平町沖西方25kmの海上で、浮上した潜水艦の砲撃を受けました。 一発被弾すると、泰東丸の船員たちは白いシーツを掲げ、潜水艦から見えるように大きく振ります。「降伏」を意味する白旗でした。ところが潜水艦は、これを全く無視して砲撃を続けました。武装していない貨物船の泰東丸は、なす術もなく標的とされます。 やがて泰東丸は10数発を被弾して、船体が大きく傾き、船内は血まみれの死体や重傷者が折り重なりました。重傷を負っていない者は海に飛び込み、脱出を図ります。やがて泰東丸は左舷を下に海中に没しました。667名が死亡したとされます。

事態を知った沿岸の漁師たちは「こんなことが許されてたまるか」と、潜水艦の攻撃を受ける恐れがあるにもかかわらず、海に船を出して救助にあたり、遺体を回収して弔いました。これらの事件を引き起こした潜水艦は、公には「国籍不明」とされています。しかし、米英軍が戦闘を停止している中、この海域で作戦活動をしていたのが、ソ連海軍第一潜水艦隊所属のL-19とL-12であったことが、ソ連の記録から判明しています。しかもウラジオストクに帰還したL-12のコノネンコ艦長は、ソ連で英雄扱いを受けました。一方、L-19は行方不明・未帰還となっており、第二号新興丸の攻撃で損傷したことが原因である可能性もあります。停戦意思を通達している国の船舶に対しての一方的な攻撃・撃沈、また白旗提示を行なった船舶への攻撃は、国際法及び戦時国際法に明らかに違反する行為です。しかし、ロシア政府はいまだにこの事実を認めようとはしません。

終戦後、1708人もの日本人が一方的に「殺戮」された事実は、まず日本人として記憶に留めるべきことです。そして、これは日本人に落ち度があったからではありません。 犠牲者の方々を悼むとともに、この悲劇からいま日本人が学ぶべきことは多いと感じます。



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