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橘周太~大正天皇の教育係をつとめた軍神、遼陽会戦に散る

2017年08月31日 公開
2018年07月04日 更新

8月31日 This Day in History

今日は何の日 明治37年8月31日

日露戦争、遼陽会戦で橘周太が戦死

明治37年(1904)8月31日、日露戦争の遼陽会戦において橘周太が戦死しました。部下から慕われた人格者として知られます。後に海軍の広瀬武夫と並び、陸軍の軍神とされた橘ですが、太平洋戦争後はかつて「軍神」という軍国主義の象徴であったということで、ほとんど顧みられなくなりました。しかし、その人柄を追うと、決して色眼鏡で見るべき人物ではないことがわかります。

橘は慶応元年(1865)、肥前国南高来郡千々石村(現在の長崎県雲仙市)の庄屋であった季隣(すえちか)の2男に生まれました。 橘家は庄屋を務めていましたが、「いかほどの資産家とならんにも、貧民生計の艱苦を忘るるなかれ」という家訓を代々伝えていたといいます。常に下の者を思いやる家風の中で、橘は成長しました。

明治14年(1881)、17歳の橘は陸軍士官学校幼年生徒に合格。以後、陸軍軍人の道を歩みます。23歳で士官学校(旧9期)を卒業、青森の歩兵第5連隊附となりました。 当時の日記には「将たる者は部下を愛するの至情を基礎とせざるべからず」とあります。自分が腹が減れば部下も空腹であり、自分が眠い時には部下も眠いと思う心がなければ、適正な判断はできないという戒めでした。

明治24年(1891)、27歳の橘は東宮武官に大抜擢されます。皇太子殿下(後の大正天皇、当時12歳)の教育係です。橘の部下に対する教育手腕が認められていた証でしょう。 皇太子殿下は相撲がお好きで、よく橘に挑みました。他の者たちはいつも皇太子殿下にわざと負けていましたが、橘は手加減しなかったといわれます。 真の体力、精神力を培って頂きたいという思いからでした。また皇太子殿下は15歳の時、早朝1時間の剣道の寒稽古を30日間続けようと言い出し、橘が相手を務めます。そして皇太子殿下が30日間1日も休まず、170回に及ぶ試合を成し遂げられた時、橘は涙を流して喜んだといいます。さらに夏には海で皇太子殿下に水泳を教えます。小舟で沖までお連れすると、「さあ泳ぎましょう」と言って、殿下を抱えて海に放り込みました。泳げない殿下は必死に手足をばたつかせ、沈みかけると橘が小舟に引き上げ、しばらく休んでから「さあもう一度」とまた海に放り込みます。こうしたスパルタで、殿下は泳げるようになり、体もめきめきと頑丈になっていったといわれます。

明治35年(1902)、38歳の橘は、名古屋の陸軍地方幼年学校長に任ぜられます。その時の新入生の一人がこう語っています。
「未だ一面識もない校長殿から、入校第一日に校門で『泙野(なぎの)』と私の姓を呼ばれたのであります。校長殿は既に入校前日までに、写真に依って全新入生徒の名を記憶せられて居たのであります」
入校第一日目から、校長に親しく自分の名を呼ばれた生徒が、どんな思いを抱いたか容易に想像できるでしょう。

また橘は、日曜日には生徒たちを交代で自宅に招き、夫人や家族総出で、おしるこやおはぎを振る舞って、生徒たちを温かくもてなしました。 明治37年(1904)に日露戦争が勃発すると、橘は歩兵第34連隊の第一大隊長に任ぜられます。 橘が大隊長として着任すると、部下たちの幕舎からは歓声が上がりました。人望のほどが窺えます。

橘は部下への接し方の要諦を次のように記しています。

「人はその心の底から、その人の誠心をうちあけて接する時は、どんな部下でも、その上官の命に従わないことはない」

8月24日夜、大隊は首山堡(しゅざんぽう)を目指して前進を開始。日露両軍28万が激突する遼陽会戦の始まりでした。 26日は一晩中雨が止まず、露営した大隊は全員がずぶ濡れとなりました。橘は「兵卒の苦労察せられ、落涙せり」と日記に記しています。

30日未明、橘率いる大隊は夜襲を敢行、橘自ら先頭に立って敵陣に斬り込み、数名の敵を倒しました。 味方も続いて敵陣を破り、大隊長旗を山上に掲げることに成功します。その直後、橘は数発の銃弾に撃ちぬかれました。部下の内田軍曹に背負われて前線から後退しつつも、夥しい出血で体温が下がる中、橘はしきりに戦況を尋ねていたといいます。そして…。

「残念ながら天はわれに幸いしなかったようだ。とうとう最期が来た。皇太子殿下の御誕生日である最もおめでたい日に、敵弾によって名誉の戦死を遂げるのは、私の本望とするところ。ただ残念ながら多くの部下を亡くしたのは、この上なく申し訳の立たないことだ」

そう語ると、静かに息を引き取りました。享年40。橘を背負って後退した内田軍曹は、遼陽会戦勝利後にこう述べています。

「私が今日まで隊長殿の部下として光栄に浴してよりまだ日は浅いのですが、隊長殿から受けた親愛の情は誠に深く、まるでずっと昔からの部下であったように接してくださいました。私はおかげさまでいつも勇み励み愉快な軍務に服することが出来ました。 崇拝、敬慕して止まない私たちの大隊長、故陸軍歩兵少佐橘周太殿のご神霊にご報告しなければならないことがたくさんありますが、眼は涙に曇り胸ははりさけんばかりで思うがごとく述べ切れません。 ただ願わくばご神霊を拝み、いつの日か再び地下において部下としての光栄をいただく時を待つだけであります」

部下に慕われる上官とはどういうものか。橘の背中が示しているように感じられます。

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