ホーム » 歴史街道 » 編集部コラム » 森可成~前田利家も称賛した猛将「槍の三左」

森可成~前田利家も称賛した猛将「槍の三左」

2017年09月19日 公開

歴史街道編集部

聖衆来迎寺

森可成の墓がある聖衆来迎寺(滋賀県大津市)
 

森可成が討死

今日は何の日 元亀元年9月20日

元亀元年9月20日(1570年10月19日)、森可成が討死しました。織田信長の家臣で槍の巧者として知られ、森武蔵守長可や乱丸(蘭丸)らの父親でもあります。

可成は大永3年(1523)、源氏の血をひく森可行の子として尾張国葉栗郡(現在の岐阜県羽島郡笠松町)に生まれました。通称は三左衛門。美濃の守護大名土岐家に仕え、主家が斎藤道三に追われると、天文23年(1554)頃には尾張の織田氏に仕えます。信長による清洲城攻めでは、敵の織田信友を討つ功績を上げ、信長とその弟・信行の家督争いである稲生の戦いにも参加、信長の尾張統一に貢献しました。その後、桶狭間の合戦にも参加しています。関の兼定の十文字槍の遣い手で、「槍の三左」の異名で呼ばれました。兼定の槍といえば、「人間無骨」と刻まれた息子の長可のものが有名ですが、長可の槍は父から譲られたものでしょうか。

織田家を逐電した前田利家が帰参する前のこと。美濃攻めの最中、可成のもとに帰参を望む利家が武功の立て方を教えてほしいと頼んできます。可成は利家を連れて斎藤軍の砦の攻略に臨みました。そして我先に山上へと逸る味方をやり過ごし、二人は体力を温存して山を登ると、疲れの出た味方を追い抜いて真っ先に砦に取り付き、可成は利家に一番乗りを譲ります。武功はこう立てるのだということを実地で利家に示したのでした。そして信長への報告でも利家の功績を称賛し、ほどなく利家は帰参を許されます。利家は終生、可成への恩を忘れず、またあれほどの戦巧者は稀であったと語ったといわれます。

永禄8年(1565)、43歳で美濃金山城主となり、その後、近江宇佐山城を与えられました。信長上洛後の京都では治安維持にあたり、政治的手腕も発揮しています。元亀元年(1570)6月の姉川の合戦でも活躍しますが、その3ヶ月後、信長が摂津で本願寺勢力と戦う隙に、浅井長政・朝倉義景連合軍が京都を衝こうとし、可成はそれを阻止すべく宇佐山城から坂本へと出陣しました。そして緒戦は敵を圧倒したものの、敵勢に新手や延暦寺の僧兵なども加わって兵力差が増す一方となり、信長の弟・織田信治らとともに「防戦火花を散らす」奮戦をしたものの、ついに討死しました。享年48。

しかし可成らの奮戦によって浅井・朝倉勢の京都進攻は成らず、宇佐山城も落城は免れました。信長は可成の死を惜しみ、その怒りが比叡山焼き討ちの一因になったともいわれます。

癒しフェア2018 東京(8月)、大阪(3月)出店者大募集!!

関連記事

編集部のおすすめ

大うつけ・織田信長の誕生と尾張統一

歴史街道編集部

姉川の戦い~織田・徳川と浅井・朝倉が大激戦

歴史街道編集部

第六天魔王・織田信長が比叡山焼き討ちにこめた「決意」

歴史街道編集部


アクセスランキング

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
癒しフェア2018 東京(8月)、大阪(3月)出店者大募集!!

現代からの視点で日本や外国の歴史を取り上げ、今を生きる私たちのために
「活かせる歴史」「楽しい歴史」をビジュアルでカラフルな誌面とともに提供します。