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米内光政~終戦工作、帝国海軍の幕引きを担った「グズ政」

2018年03月02日 公開
2023年04月17日 更新

3月2日 This Day in History

米内光政
 

連合艦隊司令長官、海軍大臣、総理大臣を歴任した米内光政が生まれる

今日は何の日 明治13年3月2日

明治13年(1880年)3月2日、米内光政が生まれました。海軍軍人で連合艦隊司令長官の他、海軍大臣、内閣総理大臣などを歴任した人物です。終戦時の海相としても知られます。

 米内は明治13年(1880)、旧盛岡藩士・米内受政(ながまさ)の長男として、盛岡に生まれました。一家困窮の中、苦学の末、明治34年(1901)に海軍兵学校を卒業(29期)。第六潜水艇の佐久間勉艇長は同期になります。

日露戦争従軍後、第一次世界大戦後のロシアとポーランドに大使館附駐在武官として赴任、ロシア革命の混乱を冷静に分析していたといいます。米内は兵学校の成績は中程度でしたが、一つの問題に対して納得のいくまで、あらゆる角度からアプローチするタイプで、それを知る人たちからは逸材と見られていました。また、部下からも慕われる人で、山本五十六が絶対の信頼を置いていたこともよく知られます。

米内が連合艦隊司令長官から転身して、海軍大臣に就任したのは昭和12年(1937)、58歳の時のことでした。 間もなく陸軍が主張した日独伊三国軍事同盟締結に、海相の米内と次官の山本五十六、軍務局長井上成美のトリオが真っ向から反対します。翌年、ドイツがソ連と不可侵条約を結ぶという背信行為に、平沼騏一郎内閣は総辞職。米内も海相を辞任し、山本五十六は海軍次官から連合艦隊司令長官に転任しました。戦後、緒方竹虎(ジャーナリスト・政治家)に「米内・山本の体制があのまま続いていたら、あくまで三国同盟に反対したか」と訊かれると、米内は「無論、反対しました。でも、殺されていたでしょうね」と語ったといわれます。

間もなく欧州で第二次世界大戦が勃発。昭和15年(1940)、米内は思いがけず首相に就任しました。欧州の大戦について米内は不介入の立場を堅持しますが、ドイツの快進撃に刺激された陸軍は、三国同盟を認めない米内内閣にこれ以上協力できないとして、陸相が辞表を提出。米内内閣は僅か半年で総辞職となりました。 戦後、昭和天皇は「米内の内閣がもう少し続いていたら、あの戦を避けることができたかもしれないね」と何度か語ったといわれます。

米内退陣の2カ月後、日独伊三国同盟はあっさりと締結され、さらに翌昭和16年末には米英を相手取る太平洋戦争が勃発。米内が最も危惧した事態となりますが、すでに予備役に編入されていた米内には、何もすることができませんでした。

しかし戦局の悪化と時代の急転が、再び米内を表舞台に登場させます。昭和19年(1944)7月、65歳の米内は小磯国昭内閣の海相に就任。米内は海軍次官に井上成美を抜擢し、井上は部下の高木惣吉少将に終戦工作研究の密命を下しました。一日も早い戦争終結が、米内、井上らの共通認識だったのです。 しかし、この頃の米内は血圧が250を超えており、いつ脳溢血で倒れるかわからない状態でした。米内はしばしば井上に「大臣の椅子を譲りたい」と言いますが、状況はそれを許しません。

昭和20年(1945)4月、小磯内閣が倒れ、戦艦大和が沈没したその日の4月7日、鈴木貫太郎内閣が誕生します。井上次官は鈴木首相の本心が終戦を目指すことにあるのを確認した上で、米内の海相留任を推しました。もっとも米内も「グズ政」のあだ名があるほどで、政治的駆け引きは得意ではない方です。ただ自分が正しいと思うことは決して譲らず、梃子でも動きません。その点で鈴木貫太郎首相と通じる部分があり、右腕としての活躍を期待されたのです。

7月26日、連合国側からポツダム宣言が発せられ、鈴木首相が「黙殺する」と言ったことが原子爆弾投下とソ連参戦の口実となりました。しかしこの黙殺は「ノーコメント」の意味であったのを、外国の新聞が「reject(拒絶)」と訳してしまった側面があります。

やがて2発目の原爆が長崎に落とされ、閣僚たちは否応なく終戦の決断を迫られました。陸相が本土決戦論を唱え、決定は深夜の御前会議にもつれこむことになる中、米内はここが切所と見て、鈴木首相にこう伝えます。

「多数決で結論を出してはいけません。きわどい多数決で決定が下されると、必ず陸軍が騒ぎ出します。それは死に物狂いの騒ぎですから、どんな事態にならぬとも限りません。決をとらずにそれぞれの意見を述べさせ、その上でご聖断を仰ぎ、それをもって会議の結論とするのが上策でしょう」

果たして鈴木首相は、その通りに見事に会議をリードし、昭和天皇の聖断によってポツダム宣言受諾の裁決が下されました。

8月15日、鈴木内閣総辞職。ところがあれほど海相を辞めたがっていた米内は、体調不良にもかかわらず、自ら望んで東久邇宮内閣、幣原内閣の海相に留任します。その理由はただ一つ、自分の手で責任をもって、日本海軍の葬式を出すためでした。

11月30日、明治以来の海軍の官制が、ついに廃止。 翌日、宮中に召された米内は昭和天皇より、「米内には随分苦労をかけたね。健康にくれぐれも注意するように」というねぎらいの言葉と記念に硯箱を賜りました。硯箱を持って退出した米内は、廊下で声を殺して泣いたといわれます。

3年後の昭和23年、米内は没します。享年69。戦争終結と日本海軍の幕引きのために、まさに精魂を使い果たしての最期でした。米内が逝去した年の暮れ、小泉信三が米内について雑誌に書いた記事を読んだ昭和天皇は、小泉と顔をあわせた時に「あれを読んで、米内が懐かしくなった」と語り、さらに続けて、「惜しい人をなくした」と言われたといいます。

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