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王政復古の大号令と小御所会議~徳川慶喜同情論に追い詰められていく薩摩藩



2017年12月08日 公開

12月9日 This Day in History

京都御所

王政復古の大号令が発せられる

今日は何の日 慶応3年12月9日

慶応3年12月9日(1868年1月3日)、王政復古の大号令が発せられました。江戸幕府、摂関制度の廃止、明治新政府の樹立を宣言するものです。御所の9つの門を閉ざし、摂政や賀陽宮朝彦親王らも同席させずに行なった政変(クーデター)劇でした。

大政を奉還した徳川慶喜の思惑

同年10月14日、15代将軍徳川慶喜の大政奉還によって、徳川幕府は政権を朝廷に返還、密かに「討幕の密勅」を準備していた公家の岩倉具視や薩摩藩の武力倒幕計画は、空振りとなりました。 平和裏に政権交代が行なわれることに倒幕派は当惑、大政奉還を推し進めた土佐藩は快哉を叫びますが、新政権がどのようなかたちをとるべきかについてはまだ定まっておらず、当面は旧幕府が暫定的に政治を行ない、朝議は親幕派の摂政二条斉敬や賀陽宮朝彦親王がリードします。

この形勢は前将軍慶喜にすれば、好都合であったでしょう。慶喜は大政を奉還し、将軍職から退いたとはいえ、政権の中枢から離れる気はさらさらなく、400万石の徳川宗家の実力を背景に、幕藩体制よりもさらに中央集権的な、近代的な新政権における絶対君主を目指していたふしがあるからです。そのモデルは、あるいはフランスのナポレオン3世であったかもしれません。実際、経験・力量からいっても新政権の首班として最も相応しいのは慶喜でした。

薩摩藩によるクーデター決行

しかし、薩摩藩を中心とする倒幕派にすれば、それだけは絶対に認めるわけにはいきません。旧幕府の軍事力を背景にする前将軍が新政権のトップにそのままスライドするのでは、実質的な徳川の優位は変わらず、むしろ「家康の再来」とも言われる慶喜の恐るべき政治力をもってすれば、倒幕派が息の根を止められる可能性すらありました。薩摩藩はそれまで、四侯会議などで慶喜に散々煮え湯を飲まされてきており、その怖さをよく知っています。この状況を覆すには、満15歳の明治天皇を手中にした上で、朝廷を掌握するクーデターを起こすしかない……薩摩は長州藩、安芸藩と合意し、さらに土佐藩、尾張藩、福井藩をも巻き込んで、クーデター決行に踏み切ります。そのやり方はかつて会津藩と組んで長州藩を追い落とした、文久3年(1863)の8月18日に酷似していました。 

ここで外様の藩はともかく、御三家の尾張と御家門の福井藩が参加していることを奇異に思われる方もいるでしょう。実はクーデター決行の時点で新政権から徳川宗家を外すことが決まっていたわけではなく、尾張や福井、さらに土佐は、幕府や摂関制度といった旧来のあり方を一新し、有能な人材を集結させた新政府を樹立するために行なうという意識であり、薩摩藩や岩倉具視らとは温度差があったのです。

小御所会議で食い違う政権構想

12月9日、朝議が終わって公家が退出すると、5藩の藩兵が御所の9門を封鎖して立ち入りを制限。先ほどまで朝議を行なっていた摂政や皇族もシャットアウトすると、岩倉具視が参内して新政権の樹立を宣言、新たに置かれる三職の人事を定めます。三職とは、総裁・議定・参与で、総裁は有栖川宮熾仁親王、議定は仁和寺宮嘉彰親王、中山忠能ら皇族・公家に加えて、島津忠義(薩摩藩主)、徳川慶勝(前尾張藩主)、浅野茂勲(広島藩世子)、松平慶永(前福井藩主)、山内豊信(前土佐藩主)ら10名、さらに参与は岩倉具視ら公家5名でした。

同日、これら三職による会議(小御所会議)が行なわれ、王政復古の大号令の内容が決定します。すなわち、徳川慶喜の将軍職辞職の勅許、京都守護職・京都所司代の廃止、江戸幕府の廃止、摂政・関白の廃止、新たに三職の設置、でした。

とはいえこの小御所会議はすんなり決まったものではなく、先述したように薩摩や岩倉具視らと、徳川親藩や土佐藩とは思い描く新政権像が異なっていました。そこで岩倉らに強硬に異を唱えたのが土佐の山内豊信(容堂)です。容堂は徳川慶喜を議長とする諸侯会議の政体こそ新政権のかたちとして望ましいとし、この場に徳川慶喜の出席を求めて岩倉と対立。「二、三の公家が幼沖なる天子を擁して陰謀を企てたもの」と決めつけました。この事態に薩摩の西郷吉之助は、「いざとなれば匕首」と容堂を刺すことも辞さない非常の覚悟で岩倉を激励し、ついに会議で、徳川政権の失政への責任として、徳川慶喜の「辞官納地」(慶喜の内大臣辞任と幕府領半分の返還)を決定するに至りました。

追い詰められたのは薩摩藩だった!

教科書などではこれに反発した旧幕府側が薩摩・長州と衝突して戊辰戦争が始まり、明治維新が成ったと説明されますが、事はそう単純ではありません。実はこの後、小御所会議の決定はあまりに過酷であると慶喜同情論が諸大名から巻き起こり、薩摩藩や岩倉への非難の空気が高まります。そして当の慶喜は、16日に大坂城に6カ国の公使を招いて、外交権は自分が有していることを認めさせ、さらに19日には王政復古の大号令の撤回を朝廷に求めています。クーデターまで行ないながら、むしろ追い詰められていたのは薩摩藩の方でした。やむなく、薩摩藩は江戸市中で浪人に乱暴を働かせるという謀略を用い、旧幕府側を戊辰戦争に引きずり込むことになるのです。



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