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戸次川の戦い~長宗我部元親・信親の無念

2017年12月12日 公開

12月12日 This Day in History

長宗我部元親
 

戸次川の戦い。長宗我部信親が討死

今日は何の日 天正14年12月12日

天正14年12月12日(1587年1月20日) 、戸次川の戦いがありました。豊臣秀吉の九州征伐における戦いで、島津家久率いる島津勢と、長宗我部元親・信親父子、仙石秀久、十河存保ら豊臣勢との戦いです。

九州制覇を目指す島津氏

天正14年6月、九州制覇を目指す島津氏は、ついに宿敵大友氏を滅ぼすべく北上し、大友領に侵攻しました。かつての勢いを失っていた大友宗麟はすでに4月、自ら大坂城に赴いて豊臣秀吉に臣従し、援軍を請うています。秀吉はこれを快諾し、まず安芸の毛利輝元を九州への先導役に命じました。

一方、秀吉の大軍が九州に来ることは島津勢も把握しており、島津義久は秀吉軍の到来前に九州制覇を終えることを目指します。7月には先陣の島津忠長、伊集院忠棟らが筑紫広門の本拠・肥前勝尾城を攻略すると、続いて大友家の武将・高橋紹運が拠る筑前岩屋城を大苦戦の末に落とし、紹運の実子・立花宗茂の拠る立花山城を囲みました。しかし立花山城は落ちず、8月に入ると、秀吉から先陣を命じられた毛利勢が豊前を攻め始め、島津勢は方針を変更。ひとまず先陣は撤退を開始します。

仙石秀久を軍監に四国勢が九州に出陣

この形勢に秀吉は9月、毛利勢に続く先遣隊として仙石秀久を軍監とし、長宗我部元親、十河存保ら四国勢を九州に向かわせ、大友軍との合流を命じました。この戦いは、長宗我部元親にすれば気乗りのしないものだったでしょう。今、秀吉が九州征伐で討とうとする島津は、先年、四国征伐で降伏を余儀なくされた元親自身と全く同じ立場だからです。また、先遣隊に組み込まれた仙石、十河とも深い因縁がありました。 「鬼十河」の異名を持つ十河存保は、元親が阿波三好家を攻めた折にしぶとく抵抗した相手。仙石権兵衛秀久は、四国征伐の折に秀吉の代官を務め、長宗我部勢に翻弄されて淡路に逃亡した過去があります。2人とも少なからず元親を憎んでいるはずでした。とはいえ秀吉の命を拒むわけにもいかず、嫡男・弥三郎信親とともに、元親は10月末には九州に入ります。

一方、毛利勢に豊前、筑前方面に攻め込まれた島津義久は、大友の本拠である豊後を衝くことにし、二弟・義弘には肥後から、四弟・家久には日向からそれぞれ豊後に向かわせました。日向から豊後に侵攻した島津家久は12月、上戸次の鶴賀城に大軍で攻めかかります。この事態に大友宗麟の息子・義統は、先遣隊の四国勢の3将に鶴賀城救援を要請しました。しかし島津勢3万に対し、先遣隊は6000です。大友義統の要請に対し、軍監の仙石は即刻救援を命じますが、長宗我部元親は敵との兵力差から味方の増援を待つことを主張。しかし十河が仙石を支持したことで、即時救援と決まります。冷静な戦況判断よりも、功名と元親憎しの一念が先行した進攻命令でした。

戸次川の戦い、長宗我部信親が討死

鶴賀城の前面には戸次川(現在の大野川)が流れており、豊臣の先遣隊の接近を知った島津家久は城の囲みを解き、川辺に小勢を展開させました。島津勢が少ないと見た仙石は、渡河してこれを攻めることを命じますが、歴戦の長宗我部元親は島津の策であると見抜き、渡河に反対。この時は、さすがに十河も反対しました。すると命令に従わない2将に仙石は逆上し、自分の部隊だけで渡河を始めようとします。やむを得ず長宗我部勢は右翼、十河・仙石は左翼となって、2手から戸次川を渡りました。すると川辺の島津の小勢は逃げ始め、長宗我部も十河も隊伍を整えつつこれを追います。突如、豊臣先遣隊の両脇から潜んでいた島津の精鋭が襲い掛かりました。さらに逃げると見せかけていた部隊も、反転して攻撃に加わります。島津のお家芸「釣り野伏」でした。そしてあろうことか、渡河攻撃を命じた仙石が真っ先に逃走、そのために先遣隊は壊乱状態となります。長宗我部信親、十河存保は味方が殲滅されていく中、敵中に孤立。信親は奮戦を続けましたが、新納忠元隊の軍奉行・鈴木内膳に討ち取られました。享年22。十河存保も配下の者と枕を並べて討死します。享年32。長宗我部元親はやや後方にいたため、辛うじて脱出することを得ました。島津の猛攻はそれほど凄まじいものだったのです。

元親は伊予宇和島沖の日振島で息子・信親の討死に接し、愕然となります。そして島津の陣営に谷忠澄を使者として送り、信親の死を確認させると、敵将の新納忠元が応対にあたり、丁重に拭き清めた信親の遺骸と、遺品の甲冑・太刀を返しました。その際、新納は、「誠に見事な最期じゃったと聞きもす。元親殿の御曹司と知っておればむざと討ちはしなかったものを」と言って、はらはらと涙をこぼしたといいます。

この戸次川の勝利によって島津勢は豊後府内に侵攻しますが、大友勢の抵抗も激しく、思うように進めぬうちに秀吉の大軍が現われ、降伏することになります。秀吉は戸次川の敗戦の責任は仙石にあるとして高野山に追放し、息子を失った元親を慰めますが、元親はその痛手から立ち直ることなく、慶長4年(1599)に没しました。享年61。



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