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元禄15年12月14日、赤穂浪士の討ち入り~芝居と史実はどう違うか

2017年12月14日 公開
2018年12月03日 更新

12月14日 This Day in History

赤穂浪士

大石内蔵助率いる赤穂浪士が吉良上野介邸に討ち入り

今日は何の日 元禄15年12月14日

元禄15年12月14日(1703年1月30日)、大石内蔵助率いる赤穂浪士が、吉良上野介邸に討ち入りました。芝居やドラマの「忠臣蔵」であまりにも有名な、元禄赤穂事件です。今回は討ち入りにまつわる芝居と史実の違いなどについて、少しご紹介してみましょう。

まず14日の討ち入りについて。討ち入りの日が12月14日に決まったのは、吉良上野介が14日に年忘れの茶会を催すという情報を得たからでした。その情報を得たのは横川勘平で、吉良邸に出入りする寺僧より、茶会の招待状の代筆を頼まれたことで知ったといいます。14日は亡君・浅野内匠頭の月命日であり、浪士たちは因縁を感じたことでしょう。茶会の日取りについては、茶人の山田宗徧に弟子入りしていた大高源五が情報をつかんだイメージがありますが、それは14日ではなく、6日の茶会の方でした。6日の茶会は、将軍綱吉の柳沢吉保邸訪問の日と重なったため延期になってしまいます。 

次に浪士たちは討ち入り前、どこに集合したのか。ドラマなどでは全員が蕎麦屋の二階座敷に集合し、そこへ生卵を抱えた細井広沢が現われて、浪士たちに卵を食べさせたりします。しかしこの頃はまだ蕎麦に小麦粉をつなぎに使っていなかったため製麺が難しく、大きな店の蕎麦屋が増えるのは享保期になってからで、当時は珍しいものでした。実際には浪士たちは3ヵ所に分かれて集まりました。本所林町五丁目の堀部安兵衛宅、本所三ツ目横町の杉野十平次宅、そして、本所二ツ目相生町の前原伊助と神埼与五郎の共同店です。特に前原らの共同店は、吉良邸の至近距離でした。

赤穂浪士らが吉良邸に討ち入ったのは午前4時頃。現在の感覚では日付が変わって12月15日ですが、当時は朝日が昇ると日付が変わると考えていたので、夜明けまでまだ2時間30分はありました。なお当日、雪は降っておらず、積雪を月光が照らしていたようです。

さて、浪士たちの討ち入り装束はどのようなものだったか。一般にイメージするのは、黒地に白く山形を染め抜いた羽織で、一説に新選組の羽織の山形も、それにちなんだといわれます。 しかしそれは人形浄瑠璃や歌舞伎で人気となった「仮名手本忠臣蔵」の衣装で、実際は黒の小袖を着ていました。また合印として袖ふちに白い晒し布をつけ、右袖の晒し布に墨で姓名が書かれています。討死した時の目印とするもので、これらは浪士一同、事前に取り決めていたものでした。さらに鎖帷子を着込み、鎖入りの手甲、脚絆を用い、帯にも鎖が入っています。鎖を多用したのは高田馬場の決闘で実戦を知る堀部安兵衛の提案であるとも、大石内蔵助の指示ともいいますが、いずれにせよこうした完全武装が浪士から死者を出すことを防ぎました。なお装束は全体的に火事装束を真似てはいましたが、必ずしも統一コスチュームではなかったようです。

吉良邸の門扉を破り、浪士らが突入する際、ドラマなどでは大石内蔵助が山鹿流陣太鼓を打ち鳴らします。音に目覚めた清水一学が、「あれぞまさしく山鹿流。さては赤穂浪士の討ち入りと覚えたり」などと叫ぶのも名場面の一つ。しかし大石らは、太鼓は持参していなかったようです。

一口に吉良邸といっても、その広さは2550坪に及び、現在の吉良邸跡とされる本所松坂町公園の86倍もあったといわれます。暗闇の中、吉良の家臣と戦いながら、そこから吉良を探し出すのは、決して容易ではなかったでしょう。吉良邸の北側には、旗本の本多孫太郎と土屋主税の屋敷が隣接していました。その夜、本多は不在でしたが、土屋は在宅しています。そこで浪士らは土屋邸に向かって挨拶します。

「われら浅野の浪士ども、吉良父子の御首を頂きに参上いたしました。騒動に及びますゆえ、あらかじめ御案内申し上げます。武士は相身互いの身、何卒お構いなきようお願い申し上げます」。

すると土屋は「心得た」と応え、塀際に高張提灯を高々と掲げました。さらに自ら庭に床机を出して腰掛け、討ち入りが終わるまで、物音に耳を傾けています。「吉良の姿がない」「取り逃がしたのか」「無念だ」「諦めるのはまだ早い。まだ屋敷内にいるはずだ。心を落ち着けて探すのだ」。土屋の耳に、そんな声が聞こえます。しばらくすると小笛が鳴り、諸方から人が集まる足音が聞こえ、「肩の疵を見よ」という声とともに、大勢が嗚咽する声が流れました。土屋は浪士らが吉良を討ったと覚ります。そして静寂の後、再び塀の向こうから「只今、上野介殿を討ち取りました。吉良家の者に問いましたるところ、吉良殿に相違なしと承り、御首を挙げ申した」と挨拶がありました。

討ち入りの翌日、土屋邸を訪れた新井白石に土屋主税は耳にしたことを語り、浪士らの働きは静かで統制が取れており、仇討ちを済ませたところまで、全く非の打ち所がなかったと語ったといいます。史実の赤穂浪士も、やはり見事であったようです。

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