歴史街道 » 編集部コラム » 保科正之~幕末会津の運命を決定づけた藩祖

保科正之~幕末会津の運命を決定づけた藩祖

2017年12月18日 公開
2022年08月01日 更新

12月18日 This Day in History

土津神社 保科正之墓所
土津神社 保科正之墓所(福島県猪苗代町)
 

会津藩祖・保科正之が没

今日は何の日 寛文12年12月18日

寛文12年12月18日(1673年2月4日)、保科正之が没しました。会津藩祖で、4代将軍家綱を補佐した名君として知られます。

保科正之は慶長16年(1611)、2代将軍秀忠の4男(庶子)として生まれました。幼名、幸松。母親は、秀忠の乳母・大姥局の侍女である静(志津)。秀忠の正室・江は悋気が強く、側室や庶子の存在を許さない性格であったといわれます。そのため妊娠した静は密かに武田信玄の次女・見性院に預けられ、見性院のもとで出産したとも、静の姉婿のもとで出産したともいわれます。いずれにせよ、幼い正之の養育は見性院とその妹・信松尼(武田信玄5女)が行ないました。ちなみにかつて見性院は穴山梅雪正室、また信松尼は織田信忠の許婚でした。

元和3年(1617)、7歳の正之は見性院姉妹の縁で、旧武田家家臣で信州高遠藩主・保科正光が生母静とともに預かることになります。この時、正之は有泉金弥、野崎太左衛門らを家臣に取り立てて、高遠に連れて行きました。彼らは見性院の命を受け、正之母子を守ってくれていた男たちです。 正之にとって見性院姉妹は、物心つくまでずっと面倒を見てくれた特別な存在でした。特に見性院は、自分の知行600石のうち、300石を正之に譲るという遺言状まで書いてくれた人です。正之はこの遺言状を後年まで大切にし、見性院姉妹を忘れなかったといいます。

高遠藩に正之を迎えた保科正光にはすでに養子がいましたが、後継者を正之とし、養子には生活に困らぬよう手当てをしました。寛永8年(1631)、養父・正光が没すると、21歳の正之は高遠藩3万石の藩主となり、正四位下肥後守兼左近衛中将に叙任。正之は自分を跡継ぎにしてくれた正光の恩を重んじ、生涯、保科姓を名乗ります。

そんな正之の存在を兄の3代将軍・家光が知ったのは、鷹狩の際、身分を隠して目黒の成就院という寺で休憩していた折、住職が世間話で「将軍家の弟君が高遠におわす」と語ったのがきっかけでした。寛永9年(1632)に父の秀忠がついに正之と対面をせぬまま没すると、兄の家光は正之に目をかけていきます。 寛永13年(1636)、正之は高遠から出羽山形藩20万石に加増移封、さらに寛永20年(1643)には陸奥会津藩23万石へ移ります。すべて家光の引き立てでした。かつて自分と後継者の座を争った弟・忠長と異なり、常に自分の分をわきまえる異母弟の正之が、家光には唯一信頼できる肉親と感じられたのかもしれません。

慶安4年(1651)、41歳の正之は臨終間際の兄・家光の枕頭に呼ばれ、11歳で4代将軍となる家光の息子・家綱の後見を託されました。いわゆる「託孤の遺命」です。正之は自分を引き立て、また信頼してくれた兄・家光に感謝し、その思いに応えようと決意しました。正之は幕政に参与するために、慶安元年(1648)に会津から江戸に出てきていましたが、家光が臨終になってからは甥の家綱のもとに4日間詰めきり、以後、実に23年にわたって所領の会津に帰国せず、誠心誠意を尽くして若い将軍を補佐し続けていきます。

そして正之が家綱を補佐している最中に起きるのが、明暦3年(1657)の明暦の大火でした。この時、正之は貯蔵米を放出して施粥や家作金を配布、焼け出された江戸の庶民を救ったといわれます。また火除け地としての広小路の新設、両国橋の架設、神田川の拡張など、江戸の防災性の向上に努めました。 そうした中でよく知られる話に、焼失した江戸城天守の再建問題があります。正之は、天守は物見に使う程度で実用的ではなく、再建する費用は江戸の復興に充てるべきと主張しました。以後、江戸城の天守はついに再建されることはなかったのです。

寛文8年(1668)、正之は兄・家光への感謝と信頼に応えるべく、「会津家訓十五箇条」を定めます。その第一条に言います。

「大君の儀、一心大切に忠勤を存ずべく、列国の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば、則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず」

幕末、会津藩主・松平容保が京都守護職を引き受ける最大の理由となった会津藩の家訓は、正之の兄・家光への感謝の念から生まれていたものでした。他藩は知らず、会津藩は何があっても徳川宗家、徳川幕府の藩屏となる。あるいは幕末の会津藩の行方はこの時、運命づけられていたのかもしれません。

寛文10年(1670)、60歳の正之は体力衰え、白内障でほとんど盲目となったため、隠居を許されて23年ぶりに会津に帰ります。藩主が不在の間、国許で藩政を仕切っていたのは、国家老・田中正玄ら高遠藩以来の重臣たちでした。しかし2年後、田中は没します。 正之は田中の死を惜しみますが、田中の墓に詣でた正之は、見えぬ目で忠臣に感謝を込めてこう呼びかけました。

「正玄、ここにおるか。我もほどなく参るぞ」

これを聞いていた供侍たちは、泣かぬ者はいなかったと伝わります。

寛文12年(1672)12月18日、正之は江戸で没しました。享年62。その生涯は常に他人が与えてくれた恩に感謝し、私心を抱かず、誠心誠意、果たすべき職責に尽くしたものといえるのかもしれません。

歴史街道 購入

2024年5月号

歴史街道 2024年5月号

発売日:2024年04月06日
価格(税込):840円

関連記事

編集部のおすすめ

徳川忠長~兄・家光との確執。そのさま狂気に類せり?

12月6日 This Day in History

徳川家光・生まれながらの将軍~それを支えた父・秀忠と六人衆

7月27日 This Day in History
×