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松平容保と孝明天皇~会津の「誠」を伝える宸翰と御製

2017年12月29日 公開
2022年07月05日 更新

12月29日 This Day in History

松平容保
 

幕末の会津藩主、京都守護職・松平容保が生まれる

今日は何の日 天保6年12月29日

天保6年12月29日(1836年2月15日)、松平容保が生まれました。幕末の会津藩主で、京都守護職を務めたことで知られます。

容保は天保6年、美濃高須3万石の松平義建の6男として、江戸四谷で生まれます。幼名、銈之允(けいのすけ)。兄に尾張藩主となる慶勝、茂栄、弟に桑名藩主となる定敬がおり、俗に「高須四兄弟」などといわれます。

弘化3年(1846)、11歳の時に会津藩8代藩主・松平容敬の養子となり、嘉永5年(1852)、養父が没した翌月に会津藩9代藩主となりました。容保17歳の時です。

黒船来航に伴い、会津藩は幕命を受けて沿岸防備にあたり、桜田門外の変が起きた際には、容保は水戸藩討伐に反対して、幕府と水戸藩の調停にあたりました。幕府の藩屏たる会津藩の役割を、容保は誠実に果たしていたことが窺われます。

そんな容保が幕末の動乱の渦中に否応なく立たされることになるのが、文久2年(1862)、27歳の時のことでした。同年、島津斉彬の構想を受けて、弟で薩摩国父(藩主の父)・島津久光が率兵上洛を行なって朝廷の信頼を得ると、久光は勅使を伴って江戸に入り、幕政改革を迫ります。 その結果、一橋慶喜を将軍後見職に、また前越前福井藩主・松平慶永(春嶽)を政事総裁職に任命することが決まりました。さらに幕府は、治安が悪化している京都を警護するために、京都守護職の設置を決定。その職に孝明天皇は島津の就任を望みますが、幕府は外様の薩摩藩が力を持つことを嫌います。そこで白羽の矢が立ったのが、会津藩でした。会津は徳川の親藩であるとともに、兵力が充実しています。その条件に適うのは、他には春嶽の福井藩ぐらいでした。

政事総裁職の春嶽は容保に就任を要請しますが、動乱の京を守るその職務は、いわば薪を背負って火中に飛び込むに等しく、容保は再三固辞します。そこで春嶽が持ち出したといわれるのが、会津藩に伝わる保科正之の家訓でした。「大君の儀、一心大切に忠節を存ずべく、列国の例を以て自ら処るべからず…」。 そして「正之公であれば、お受けされていたでしょう」と春嶽に言われては、容保も断れません。藩祖の精神に従い、悲壮な覚悟を固めた容保は、家臣らと「ともに京師の地を死に場所にしよう」と泣くのです。この時、幕末の会津藩の運命は決まったのかもしれません。

1000人の会津藩の精兵を率いた容保が上洛し、黒谷の金戒光明寺に入ったのは、文久2年の末でした。年明けの正月、容保は孝明天皇に拝謁。参内した容保に誠実さを見出した天皇は、容保に好感を抱き、「陣羽織にでも仕立てよ」と緋の御衣を下賜されました。 京都の治安維持の任についた容保は、最初は過激な攘夷論者の意見にも耳を傾けようとしますが、足利将軍の木像が梟首されたことから、彼らの中に将軍を討つ意思が内在することを感じ取り、断乎取締りに転じます。その先頭に立ったのが、幕府浪士組として上洛し、会津藩に庇護を求めた壬生浪士組(後の新選組)でした。

京都御所

文久3年(1863)3月、14代将軍家茂が、3代家光以来の上洛を果たし、孝明天皇に拝謁します。天皇は妹宮・和宮の夫である18歳の将軍家茂にもまた、好感を抱きました。家茂と容保、孝明天皇が二人から感じとったのは、誠実で真っ直ぐな人柄です。当時の朝廷は、過激な攘夷志士たちに感化された公家たちが、勅諚と称して天皇の意思に関わりなく命令を下していました。容保もある雨の日に突然、御所で馬揃えを行なうことを命じられます。馬揃えを失敗させ、容保を失脚させる目論見でした。 しかし、日頃から鍛錬を怠らぬ会津藩兵は見事にやってのけ、孝明天皇から大いに賞賛されました。この日、容保が纏っていた陣羽織は天皇から賜った御衣を仕立て直したもので、それに気づいた天皇は、さらに喜んだといいます。

また容保は、孝明天皇の名で江戸に帰るよう命じられたこともあります。しかしその直後に天皇から宸翰が届き、帰るよう命じたのは公家たちによる偽勅であると明かし、「自分は会津を最も頼りにしている」と伝えます。容保はこの言葉に感泣しました。そして度々「偽勅」が発せられる事態を重く見た会津藩は、同じく朝廷内から長州藩の息のかかった尊攘激派を一掃したい薩摩藩と手を結び、8月18日の政変を起こして、過激な公家たちと長州の勢力を朝廷内から一掃するのです。

容保は体が強い方ではなく、京都でも度々病臥します。すると孝明天皇は自ら平癒を祈願し、神饌の洗米を賜りました。容保の感激は想像に余りあるでしょう。孝明天皇が健在である限り、将軍家茂と守護職容保への信頼は変わらず、倒幕という事態もあり得なかったはずです。

しかし、慶応2年(1866)に将軍家茂が大坂城で病没し、慶応3年(1867)1月には、孝明天皇が突然、崩御されました。容保にすれば、己の支えにしていた2人を相次いで失ったわけで、とりわけ天皇の崩御には、悲嘆が深かったはずです。以後、政局は同年の大政奉還、王政復古の大号令となり、慶応4年(1868)の鳥羽伏見の敗戦によって、会津藩には朝敵の汚名が着せられました。孝明天皇と深い信頼関係にあった容保にすれば、怒り心頭に発する出来事だったでしょう。

しかしその後の東北での戦いでも会津藩に利なく、8月23日から会津城下で約1ヵ月間の死闘を演じた末、容保は降伏・開城を決断します。会津藩家中の悔しさは、推して知るべし、です。その後の容保は一切、表立った活動はせず、東照宮宮司などを務めながら、自分のために死んでいった者たちの冥福を祈り続けました。

明治26年(1893)、没。享年59。孝明天皇から賜った宸翰は生涯、肌身離さず身につけていたといいます。

たやすからざる世に武士(もののふ)の忠誠のこころをよろこひてよめる
やはらくも 猛き心も 相生の 松の落葉の あらす栄へむ
武士と 心あはして 巌をも つらぬきてまし 世々のおもひて

孝明天皇から容保に贈られたという御製です。

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