歴史街道 » 編集部コラム » 井上源三郎~近藤、土方を支え、鳥羽伏見に散った「源さん」

井上源三郎~近藤、土方を支え、鳥羽伏見に散った「源さん」

2018年01月05日 公開
2018年12月25日 更新

1月5日 This Day in History

鳥羽伏見の戦い
 

新選組・井上源三郎が淀千本松で戦死

今日は何の日 慶応4年1月5日

慶応4年1月5日(1868年1月29日)、井上源三郎が没しました。新選組の六番組組頭を務め、近藤勇や土方歳三から深く信頼されていたことで知られます。

源三郎は文政12年(1829)、日野宿北原にて、八王子千人同心の井上藤左衛門(初代松五郎)の3男に生まれました。諱は一武(かずたけ)。井上家は川中島合戦にも参戦したといわれる武田家の旧臣で、正徳3年(1713)より、代々八王子千人同心を務めています。八王子千人同心とは、武蔵国多摩郡八王子(現在の八王子市)に置かれた郷士身分の幕臣のことで、甲州口(武蔵と甲斐の国境)の警備や治安維持に任じられていました。また、日光東照宮の警備も交代で行ないます。10組各100人で構成され、各組の千人同心組頭は御家人、八王子千人頭は旗本の身分でした。

八王子千人同心の置かれていた多摩郡は徳川の庇護を受けていたため、同心だけでなく農民も徳川恩顧の意識が強く、新選組の母体となったことも頷けます。また武芸も盛んで、源三郎も兄と近所の佐藤彦五郎の道場に通い、19歳頃に天然理心流近藤周助の門人となりました。源三郎は稽古に励み、12年の歳月を要して万延元年(1860)に免許皆伝を得ています。また源三郎が門人となって間もない嘉永2年(1849)には、島崎勝太が師・周助の養子となりました。勝太が後の近藤勇で、文久元年(1861)に宗家を継ぎます。源三郎は勇と親しく交わりました。

新選組隊旗

文久3年(1863)、幕府が将軍家茂上洛警護のための浪士隊を結成することになると、源三郎は同門の近藤、土方歳三、沖田総司らとこれに参加します。時に源三郎、35歳。近藤30歳、土方29歳。 京都で浪士隊(京都残留組)は、京都守護職の会津藩主・松平容保の御預りとなり、やがて新選組と命名されました。源三郎は幹部である副長助勤を務めます。

元治元年(1864)の池田屋事件では土方隊の支隊を指揮し、浪士らの捕縛に活躍。また禁門の変、天王山の戦いなどでも奮戦しました。当時の源三郎を、彼らが屯所としていた壬生の八木家の子供だった為三郎は、「ひどく無口な、それでいて非常に人の良い人でした」と語っています。寡黙で勤勉実直、そして人の良い、源三郎の人となりが伝わってきます。

慶応元年(1865)6月の新選組の編成替えでは、源三郎は六番組組頭に任じられています。また慶応3年(1867)に新選組が幕府直参に取り立てられると、副長助勤として70俵3人扶持を与えられました。

慶応4年(1868)1月3日、鳥羽・伏見の戦いが始まると、新選組は4日に淀千本松に布陣。そして翌5日、同地で新政府軍と激戦となり、源三郎も死闘を続けますが、腹部に敵の銃弾を受けて戦死しました。享年40。甥の井上泰助が源三郎の首を持ち帰ろうとしますが、あまりに重く、撤退の支障となるため、途中の寺院に首と刀を埋葬しました。寺の名は不明とされてきましたが、最近の研究で墨染の欣浄寺に首塚が残っていることがわかったようです。

ちなみに、大河ドラマ「新選組!」では、小林隆さんが好演していました。いかにも古参門人の趣きがありながら、まめまめしく近藤にお茶を入れ、「源さん」と呼ばれていた姿が印象的でしたね。

歴史街道 購入

2024年5月号

歴史街道 2024年5月号

発売日:2024年04月06日
価格(税込):840円

関連記事

編集部のおすすめ

近藤勇の最期

4月25日 This Day in History

土方歳三はなぜ、戦い続けたのか

『歴史街道』編集部
×