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第二次国府台合戦~北条氏康・氏政、鮮やかな逆転勝利

2018年01月07日 公開

歴史街道編集部

里見公園・国府台城跡
国府台城跡(千葉県市川市、里見公園)
 

第二次国府台合戦、北条氏康・氏政父子が里見義弘らを破る

今日は何の日 永禄7年1月8日

永禄7年1月8日(1564年2月20日)、第二次国府台合戦で、北条氏康・氏政父子が、里見義弘らを破りました。江戸川の矢切の渡しに近い、国府台(千葉県市川市)で行なわれた戦いとして知られます。

戦いの発端は、武蔵江戸城の城代・太田康資の北条氏への逆心にありました。康資は遠山綱景や富永直勝と並ぶ江戸三城代の一人で、その母親は北条二代氏綱の娘という北条氏の身内というべき人物です。その康資の叛旗は、北条氏に波紋を広げました。北条氏康は康資の背後に、叛旗を後押しする者がいると睨みます。安房の里見義堯でした。里見は越後の長尾家と「房越同盟」を結んで、長尾景虎(上杉謙信)の関東出陣を促し、旧上杉の者たちとも協力して北条包囲網を築こうとしていたのです。そして永禄7年初頭、里見義堯の嫡男・義弘が1万2000の軍勢で下総に侵攻、小金城主の高城氏を破ると、国府台城に入ります。

里見軍には太田康資と、さらにその一族で岩付城に拠る太田資正が合流しました。この知らせに氏康は、先陣を遠山、富永の江戸衆とし、本軍の大将を息子の氏政、氏政の後見を勇将・北条綱成に命じて、2万の軍勢を整えて国府台へ向かいます。1月7日、江戸城を出陣した先陣の遠山、富永勢が国府台に近づいたところ、敵が一目散に退却するのが見えました。そこで江戸衆は一気に太日川(ふといがわ、現在の江戸川)を渡河し、国府台に攻め寄ろうとします。

ところが、これは罠でした。遠山、富永ら渡河中の先陣を敵の伏兵が襲い、さらに里見方の正木大膳らの精鋭が坂の上から攻め下って、遠山綱景、富永直勝の2将は討ち取られ、北条の先陣は壊滅的な打撃を受けてしまうのです。その直後に北条氏政率いる本軍が戦場に到着すると、里見勢は素早く軍を退き、緒戦は里見方の圧勝の内に終わりました。里見方は気をよくして、本陣近くで将兵に酒を振舞います。

一方、里見方の様子を探っていた北条の本軍は、敵が酔いつぶれていることを知ると、綱成らが氏政に夜襲を進言。氏康もこれを承知し、8日未明、「黄八幡」の旗を掲げる綱成の軍勢を先頭に、太日川を押し渡って、里見軍の寝込みを襲いました。北条の夜襲に国府台城の里見軍は大混乱に陥り、5000以上の死傷者を出して里見義弘は安房に逃れ、太田康資は深手を負って岩付城へと敗走します。北条方の鮮やかな逆転勝利でした。

勢いに乗った北条方は、敗走する里見軍を追撃し、里見義弘の本拠である久留里城近くまで攻め込みます。しかし、北条方の背後を越後の上杉が衝く気配を見せたため、それ以上は進まずに、小田原に引き上げました。 里見氏に痛撃を与えた北条氏ですが、両家の戦いは以後13年間も続き、天正5年(1577)にようやく和睦することになります。

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