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京都見廻組・佐々木只三郎~清河八郎、坂本龍馬を斬った男の忠義とは?

2018年01月11日 公開

歴史街道編集部

鳥羽伏見の戦い跡
鳥羽伏見戦跡碑(京都市伏見区)
 

京都見廻組与頭・佐々木只三郎が没

今日は何の日 慶応4年1月12日

慶応4年1月12日(1868年2月5日)、佐々木只三郎が没しました。京都見廻組与頭で、小太刀をとっては日本一といわれる剣士であったともいわれます。

佐々木只三郎は天保4年(1833)、会津藩士・佐々木源八の3男として会津に生まれました。通称は唯三郎とも。諱は高城。長兄は会津藩公用人・手代木直右衛門です。只三郎は神道精武流の剣を藩の師範・羽嶋源太に学んで奥義を極め、また槍を沖津庄之助に学んで熟達し、若い頃から槍刀に非凡な才能を示していました。安政6年(1859)の27歳の頃、只三郎は幕府御家人・佐々木矢太夫の養子となります。矢太夫の佐々木家は、只三郎の実家とは縁戚ではありません。そして只三郎は、御書院番与力に任じられました。

文久3年(1863)、将軍家茂上洛の護衛として、幕府が募集した浪士組230余人が京に向かうにあたり、浪士取締出役として只三郎と速水又四郎が、幕府派遣の役人として同行します。速水は幕府講武所の槍術世話心得を務める、槍の達人でした。只三郎、速水の武芸が買われたことが窺えます。しかし浪士組は京都についた途端に、出羽庄内浪士・清河八郎の呼びかけで「攘夷の先兵」となるべく、江戸に戻ることになります。浪士組の発案者である清河は、最初から彼らを自分の私兵とすべく、幕府を騙して利用したのでした。なお江戸帰還に反対して京都に留まった近藤勇、芹沢鴨らが、後の新選組となります。

江戸に戻った清河は、浪士隊を用いて横浜の外国人居留地を襲う「攘夷」を計画。これを知った幕府は、只三郎、速水らに清河を討つよう密命を下しました。清河は北辰一刀流の免許皆伝という腕利きであることから、只三郎らが選ばれたのでしょう。文久3年4月13日、清河が単身、麻布一之橋を渡るところを、待ち伏せていた只三郎、速水らが襲い、清河を討ち取りました。清河の死によって横浜襲撃計画は未然に潰え、清河の同志らは捕縛。浪士組は新徴組と名を改めて、庄内藩預かりで江戸の市中取締りにあたることになります。

その後、京では京都守護職を務める会津藩が中心となって、長州藩をはじめとする尊攘過激派を朝廷から一掃する8月18日の政変が行なわれました。 しかし尊攘過激派らによる反幕の動きはその後も続いたため、幕府は新たに京都に治安維持部隊を新設します。それが、京都見廻組でした。

京都見廻組は譜代席と呼ばれる御家人を中心とした400人の部隊を目指しました。2人の京都見廻役が200人ずつ支配する構想で、見廻役は浅尾藩1万石藩主・蒔田相模守と、旗本・松平因幡守。 しかし隊士が集まらず、やむなく御家人の次男、3男ら「部屋住み」も対象にしてようやく300人余りを集めます。 そして禁門の変の戦火が迫る元治元年(1864)6月16日に、管理役である見廻組与頭勤方の一人を命じられたのが、只三郎でした。7月19日の禁門の変の際は、見廻組の大半の隊士はまだ京都に到着しておらず、只三郎ら与頭勤方4人と浅尾藩士らが参戦しました。これが見廻組の初陣です。

8月からは見廻組も新選組同様、京都市中巡察を行ないますが、最初、任務が同じであることから、両者は張り合い、対立しがちでした。しかしその後、お互いに提携し、京都守護職、京都所司代の人数も含めて、市中巡邏コースを分担していくことになります。

慶応元年(1865)12月、只三郎は見廻組与頭に昇格。組織のトップは京都見廻役ですが、実質的な実務は与頭の只三郎が取り仕切ることになります。 その頃には、只三郎は見廻組の組屋敷ではなく、市中の寺(北野天満宮境内の観音寺、二条城の北の松林寺)を借りて妻・美津と暮らし、一子・高をもうけました。また只三郎は、和歌をよくしたといわれます。只三郎作といわれる和歌がいくつかありますが、「先がけて 折れし忠義のふた柱 くづれんとせし軒を支えて」などは、只三郎の気分をよく示しているのかもしれません。また和歌の縁で、薩摩藩の高崎佐太郎や八田喜左衛門らと個人的に親交があったようです。

似通った任務につきながら、見廻組と新選組では今日伝わるエピソードの数が違い、新選組の活躍に脚光が当てられがちです。そこには身分を問わず腕と志で入隊した新選組隊士と、お役目として職務にあたる見廻組隊士の温度差があったようにも感じられます。そんな見廻組の名が今日よく知られているのは、坂本龍馬暗殺の実行犯の可能性が極めて高いからでしょう。龍馬暗殺には今も謎が多いですが、もし見廻組が職務として龍馬を捕殺したのであれば、これは暗殺とはいいません。しかし見廻組には龍馬捕殺の記録はなく、只三郎が指揮を執った可能性が高いとされますが、確証はないのです。

慶応3年(1867)12月の王政復古の大号令後、京都見廻組は一度大坂に下りました。翌慶応4年(1868)1月2日、只三郎は400人ほどの隊士を率いて鳥羽方面に進撃、旧幕府軍が薩摩藩と衝突して鳥羽・伏見の戦いが始まります。只三郎は鳥羽、富ノ森で奮戦しました。 1月6日、只三郎は橋本方面で戦闘中、腹部に銃弾を受けます。重傷の只三郎は大坂へ搬送され、前将軍慶喜が大坂城を捨てて江戸に退いたため、旧幕軍は大坂城に留まることもできず、只三郎も紀州藩を頼って落ちる途中、1月12日に没しました。享年36。紀三井寺で没したとも、由良港に碇泊中の富士山丸の艦内で没したともいいます。

ドラマ等では暗殺者として描かれがちな只三郎ですが、実像は職務に忠実な幕臣であり、徳川を支えようとする武人の一人であったといえるでしょう。

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