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玉川上水開削の歴史~驚くべき技術水準

2018年01月13日 公開

歴史街道編集部

玉川上水
 

徳川幕府が玉川上水の開削を決定

今日は何の日 承応2年1月13日

承応2年1月13日(1653年2月10日)、徳川幕府は江戸市民に安定的に飲料水を提供し、また武蔵野の新田開発を進めるために、多摩川からの上水開削を決定しました。玉川上水です。

明治時代に来日した外国人は、奈良の大仏とともに、玉川上水の技術の高さに驚嘆したといわれます。時に4代将軍徳川家綱の治世でした(当時13歳)。工事の総奉行は老中で川越藩主の松平伊豆守信綱(58歳)、水道奉行には伊奈半十郎忠治(62歳)が就きました。伊奈はそれまでに数多くの河川改修を手がけてきた人物です。

また実際の設計・施工は、江戸で土建業を営んでいた庄右衛門(32歳?)、清右衛門の兄弟が手を挙げ、幕府より命ぜられました。兄弟は多摩川沿いの農家の出身であるともいいます。

幕府は資金として、前金で6000両を拠出しました。 着工は承応2年4月(2月とも)。多摩川から四谷大木戸まで、ほぼ43kmの開削です。しかし、その高度差はおよそ90mしかなく、工事は難航しました。夜間に測量を行ない、束にした線香や提灯の明かりを利用して「水準器」で計測、高低差を確認したという話も伝わります。

そして、工事は2度の失敗に見舞われました。 2度の失敗には2つの説があり、一つは最初、多摩郡日野の渡しの側の青柳村段丘下(現在の国立市青柳)から水を引いたところ、府中八幡宮下あたりで流れなくなり、次に福生から掘り始めたところ、熊川村(現在の福生市熊川)付近で浸透性の高い土に水が残らず吸い込まれてしまう水喰土にあたってしまったというもの。 もう一つは、最初、日野から取水しようとして途中まで掘って水門を開けたところ、水喰土のために失敗、次に福生を取水口にして掘り進めたところ、途中で大きな岩盤にぶつかり、先に進めなくなったというものです。

この二度の失敗の最中に、水道奉行の伊奈忠治は心臓発作を起こして病没しました。忠治の役職は、息子の伊奈忠克が引き継ぎます。また福生での失敗の際に、上級役人が責任をとって切腹したという話が地元の「かなしみ坂」に伝わっています。

この事態に松平信綱は、家臣の川越藩士で土木技術に精通する安松金右衛門を設計技師として起用しました。安松は羽村を取水口にし、いくつかの段丘を這い上がるようにして武蔵野台地の稜線に至り、そこから尾根筋を巧みに利用して四谷まで向かう自然流下方式の導水路を設計、それに基づいて工事が進められます。

そして着工から僅か8ヵ月後(閏年で6月が2度あるため)の承応2年11月、羽村取水口から四谷大木戸に至る素掘りの水路が完成しました。しかし四谷に辿り着く前の高井戸付近で、工事費用を使い果たしたため、庄左衛門兄弟は家屋敷を売却して、工事費用に充てたといわれます。

この功績により、兄弟は玉川姓を名乗ることを許され、玉川兄弟として知られることになりました。また上水役として、上水の管理にもあたることになります(後に3代目の時に不正が発覚し、御役御免、苗字帯刀は剥奪されたと伝わります)。

それにしても当時、測量は水準器(夜間の線香や提灯の光を目印に、U字形の管に水を入れて計測する)を用い、また距離や勾配は和算の三角函数(関数)法で算出していたといわれ、その技術水準の高さには、改めて驚かされます。

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