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河上彦斎~「るろうに剣心」のモデルとされる人斬りの実像

2018年01月12日 公開

歴史街道編集部

人斬り

幕末四大人斬りの一人、 河上彦斎が処刑される

明治4年(1872)1月13日

明治4年(1872)1月13日、河上彦斎が処刑されました。「人斬り彦斎」の異名を持ち、佐久間象山を暗殺したことで知られます。田中新兵衛、岡田以蔵、中村半次郎とともに幕末四大人斬りの一人とされ、人気コミック「るろうに剣心」の主人公・緋村抜刀斎のモデルともいわれますが、実像はかなり異なります。
 

河上彦斎とは

彦斎は天保5年(1834)、肥後熊本藩士の小森貞助の次男に生まれました。諱は玄明(はるあきら)。11歳の時に河上彦兵衛の養子となり、16歳で御坊主として剃髪の上、熊本城に出仕しました。 掃除やお茶汲みの坊主の仕事は低く見られますが、彦斎は真面目に務め、余暇には学問や武芸を学びます。また尊王攘夷の志を持つ、宮部鼎蔵らとも交わりました。

安政元年(1854)、21歳の時に参勤交代に随従して江戸に行き、黒船来航と幕府の和親条約締結を聞いて憤ります。国許に帰ると国学者・林桜園の原道館に入門、尊王攘夷思想を強めました。 原道館には宮部鼎蔵、横井小楠、吉田松陰、真木和泉らも学び、塾では国学だけでなく儒学、洋学も扱う柔軟性がありましたが、彦斎は観念的攘夷論に傾きます。

安政6年(1860)に桜田門外の変が起きた折、井伊大老を討った水戸浪士のうち4人が、負傷してふらふらになり、肥後藩邸での休息を求めると、居合わせた彦斎は彼らのために医者を呼び、茶でもてなしたといわれます。彼らに共鳴していたことが窺えるでしょう。肥後細川藩には、宮部ら肥後勤王党も存在しますが、藩そのものはもちろん反幕的な姿勢はとっていません。

文久2年(1862)には薩摩藩の島津久光が率兵上京及び幕政改革を行ない、宮部も上洛して活動しますが、彦斎は国許で連絡役を務めました。翌文久3年(1863)、肥後藩は御所の九門警備を命じられ、彦斎も共に上洛することになります。この時、坊主職は解かれ、蓄髪も許されました。

しかし同年8月、会津・薩摩藩による8月18日の政変によって長州藩及び尊王攘夷過激派は朝廷内から一掃されます。三条実美ら7人の攘夷派公卿と攘夷派志士たちの多くは長州へと落ち、彦斎や宮部らも肥後には戻らず、脱藩してともに長州に向かいました。 が、宮部はほどなく再び上洛し、潜伏する他の志士らと連携して尊攘派の失地回復を目論見ます。具体的には京都で騒乱を起こし、京都守護職を討つというものでした。

元治元年(1864)6月5日、宮部ら尊攘過激派の計画は新選組に察知され、三条の旅籠・池田屋で会合中を踏み込まれます。居合わせた浪士や長州藩士は闘死、もしくは捕縛され、宮部もその場で自刃しました。彦斎はその報せを長州で聞くと、悲憤慷慨し、急ぎ上洛して京都市中に潜伏、幕府に対する報復として佐久間象山の命を狙います。
 

佐久間象山暗殺

佐久間象山遭難之碑(京都市中京区)
佐久間象山遭難之碑(京都市中京区木屋町御池上ル)

佐久間象山は弟子・吉田松陰の黒船密航未遂事件に連座して、松代で蟄居を続けていましたが、元治元年に一橋慶喜に招かれて上洛しました。 象山の考え方は幕府と朝廷がしっかりと手を結び(公武合体)、一丸となって開国した上で、西洋の最新の軍備を整え、欧米の侵略を防ぐという大きな意味での「攘夷」であり、その後の明治政府の方針そのものです。しかし尊攘過激派には象山の真意が伝わらず、開国を主張する「腰抜けの西洋かぶれ」と見られていました。彦斎もそう信じています。

7月11日、京都の三条木屋町で象山を待ち伏せた彦斎は、馬上の象山に太刀を浴びせ、斬殺しました。人斬りの異名を持つ彦斎ですが、明確に人を斬った記録が残るのは、この事件のみです。もし象山の真意を彦斎が知っていたら、果たして暗殺していたかどうか。本当に歴史は紙一重の差です。

その後も彦斎は長州藩と行動を共にし、同年の禁門の変では家老・国司信濃の隊に加わりました。禁門の変で敗れると、再び長州に戻って、高杉晋作の功山寺挙兵に協力。 慶応2年(1866)の第二次長州征伐(四境戦争)では、故郷の肥後細川藩が幕府軍として小倉に布陣していることに悲しみ、桂小五郎や高杉らが止めるのを振り切って、熊本へ説得に赴きます。しかし脱藩した彦斎の言葉に藩が耳を傾けるはずはなく、そのまま投獄。牢から出されたのは、慶応4年(1868)1月の鳥羽・伏見の戦いで旧幕府側が賊軍の烙印を押されてからでした。
 

維新後の河上彦斎

細川藩ではあわてて彦斎ら勤王党に連なる人々を召し出し、新政府側につこうとします。彦斎は高田(こうだ)源兵衛と改名し、藩の外交役を任されました。 ところが彦斎は、新政府が開国していると知って驚きます。自分たちは尊王攘夷の実現のために奔走したのではなかったのか……。東京で桂小五郎(木戸孝允)や三条実美を問い質すと、「まず開国し、西洋文明を吸収して富国強兵を図ることこそが攘夷」という返事。彦斎が佐久間象山の真意を知っていたら、その通りになったことに絶句したかもしれません。

その後、彦斎は藩より藩の飛び地・鶴崎(現在の大分市)で教練を託され、有終館という兵学校を開きますが、そこへ旧知の長州藩士で、大村益次郎や横井小楠暗殺に関与した件で追われていた大楽源太郎が転がり込みます。 そのため有終館も反政府組織と疑われ、彦斎は再び投獄の上、明治4年(1871)、東京で尋問されて処刑されました。享年38。 

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