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林忠崇~殿様なのに脱藩!徳川のために戦った男が残した辞世

2018年01月22日 公開

1月22日 This Day in History


 

上総請西藩3代藩主・林忠崇が没

今日は何の日 昭和16年(1941)1月22日

昭和16年(1941)1月22日、林忠崇が没しました。上総請西藩3代藩主で、幕末に脱藩し、藩士を率いて伊庭八郎、人見勝太郎らの遊撃隊に加わったことで知られます。

忠崇は嘉永元年(1848)、請西藩初代藩主・林忠旭の5男に生まれました。通称、昌之助。請西藩はもともと文政8年(1825)に、旗本・林忠英(忠崇の祖父)が1万石の大名に列せられたことで成立した上総貝淵藩が元です。忠旭の代に陣屋を貝淵から請西(現在の木更津市請西)に移したことで、請西藩と呼ばれることになりました。 林家は1万石に過ぎませんが、その当主は毎年正月元旦卯の刻(午前6時頃)、江戸城白書院で、将軍から盃と兎の吸い物を賜るという家柄で、盃を一番に賜ることから「一文字大名」とも呼ばれました。なぜこうした格別の扱いを受けるかについては、その先祖に理由があります。

林家の祖・林藤助光政は、永享の乱に敗れて流浪していた世良田有親、親氏父子を匿ったことがありました。世良田父子は徳川家の遠祖とされる人物です。 そしてある寒い晩、光政は自ら猟に出て兎を得ると、吸い物にして世良田父子に食べさせました。世良田親氏はこの恩を忘れず、後に三河に地盤を得ると、光政を招いて松平家の侍大将に任じます。元旦の儀式は、その時から続くといわれるものです。

慶応3年(1867)6月、叔父で2代藩主・忠交が急死したため、20歳の忠崇が3代藩主に就任しました。忠崇は文武両道に優れ、将来の幕府閣僚の器といわれていたようです。また格別の家柄であることから、徳川家への忠誠心は強いものがありました。

同年10月、大政奉還の報せが届くと、請西藩では洋式調練を行なって有事に備えました。しかし慶応4年(1868)1月の鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍は敗れ、新政府軍が江戸に入り、勝海舟と西郷隆盛との間で江戸無血開城の交渉がまとまります。この事態に江戸に近い房総では、佐倉藩11万石をはじめ久留里、一宮、古河が新政府軍支持を標榜、他の藩は様子見の中、忠崇の請西藩のみは旧幕府軍支持の立場を表明します。

そんな忠崇を慕って4月28日、鳥羽伏見の戦いを潜り抜けた遊撃隊の人見勝太郎、伊庭八郎らが訪れました。遊撃隊は幕府講武所の師範や奥詰めの幕臣たちで構成された部隊です。とりわけ伊庭八郎は、心形刀流宗家の血を引く天才的な剣士として知られていました。しかしその数は36人に過ぎず、請西藩の加勢を懇願したのです。

徳川家の汚名を晴らし、再興を力説する人見や伊庭に21歳の忠崇は共感し、協力を約束しました。しかし藩を挙げて起てば領内は戦場となり、領民に災禍をもたらします。そこで忠崇が決断したのが、藩主自らの脱藩でした。忠崇は志を同じくする70人の藩士とともに、4月3日、藩を出立します。人見、伊庭らの36人を加えて総勢106人。

くもりなき 心や見せん明日の夜は かばねも露に照らす月影

出陣にあたり忠崇が詠んだ歌といわれます。領民を思い藩主自ら去ることを知った村人たちは感激し、みな沿道に土下座して忠崇を見送り、その武運を祈りました。

忠崇ら遊撃隊が目指したのは箱根です。小田原藩を味方につけるとともに、箱根の天険で新政府軍の補給路を遮断、関東の諸隊と連繋して、関東の新政府軍を殲滅するという作戦でした。箱根に至ると小田原藩は表面上、新政府軍支持ですが、関所を遊撃隊に明け渡します。遊撃隊には諸方から参加者があり、この頃には300人近い数になりました。 しかし関所の件を新政府軍に咎められると、小田原藩は自ら遊撃隊に襲いかかります。二重の裏切りでした。この箱根の戦いで40人余りの隊士が戦死、伊庭も腕を切断する重傷を負います。

しかし遊撃隊は徹底抗戦の信念を曲げず、幕府海軍の協力を得て、奥羽越列藩同盟が結ばれた東北に向かいました。小名浜に上陸した忠崇ら遊撃隊は、常陸平潟港の攻防戦を皮切りに、棚倉、泉、平、相馬中村と奮戦しますが、戦いに利あらず、忠崇は自ら最前線で戦おうとするのを度々家臣に諫止されます。

しかし9月には米沢藩、続いて仙台藩も降伏、列藩同盟は瓦解しました。 そしてその頃、徳川家が駿府70万石で存続することが決まり、前将軍慶喜の助命も確定します。このことを知った忠崇は当初の願いは達成され、またこれ以上の戦いは無駄な犠牲を増やすだけと判断し、10月初めに降伏するのです。

明治5年(1872)、忠崇は赦免されますが、すでに藩はなく、華族でもない忠崇はそれからが生きるための苦労の連続です。開拓農民、下級官吏、商家の番頭など、到底かつての殿様とは思えない生活を続けました。明治26年(1893)、ようやく華族に列します。そして昭和16年、娘の経営するアパートで忠崇は静かに生涯を終えます。享年92。

忠崇は「最後の大名」でもありました。死の直前、辞世の句を問われると、忠崇は明治元年に既に詠んだと答えます。

真心の あるかなきかはほふり出す 腹の血しおの色にこそ知れ

最後の大名、そして最後の侍というべきなのかもしれません。



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