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新島襄~キリスト教主義による「一国の良心」教育

2018年01月23日 公開
2022年08月25日 更新

1月23日 This Day in History

新島襄
 

同志社の創設者・新島襄が没

今日は何の日 明治23年1月23日

明治23年(1890)1月23日、新島襄が没しました。同志社英学校(後の同志社大学)を創立した明治を代表する教育家で、新島八重の夫としても知られます。
 

蘭学、英学を志す

新島襄は天保14年(1843)、上州安中藩士・新島民治の長男として、江戸の安中藩邸で生まれました。通称は七五三太。これは同居する祖父・弁治が、孫が4人続けて女子であったため、男子誕生に「しめた!」と言ったことに由来するともいわれます。諱は経幹。 幼少の頃は腕白で、8歳の時に他の子供たちが怖がる高い囲い板の上を、下駄履きのまま渡ってみせて転落し、目の上を16針縫う大怪我をしました。傷痕は後年まで残り、結婚後、妻の八重から頭髪が薄くなったら傷が目立つのではと言われると、「そこまで長生きしない」と笑ったといいます。

10歳になると藩の漢学所に通い、猛勉強の末に年少ながら秀才と呼ばれました。そんな襄は認められて、14歳の時に藩主・板倉勝明より蘭学修行を命じられます。翌安政4年(1857)に勝明が急死すると、新藩主・勝殷(かつまさ)は蘭学を廃止。ところが、襄は蘭学への意欲を抑え切れません。祐筆役の父と同様、藩の祐筆補助となった襄は、職務に就かずに蘭学塾に通うようになり、咎められると、休職願いを出して蘭学書や物理、天文学の書物を読みふけりました。 そして万延元年(1860)、18歳で幕府の軍艦教授所に入所。2年間の操船修行を積み、文久2年(1862)には私費で甲賀源吾の塾に入って、西洋の陸海兵学や数学を学びます。

襄の熱意は、単なる蘭学や軍艦への興味ではありません。当時は欧米列強の脅威が迫り、幕末の動乱の只中、襄もまた多くの若者と同じく、日本の将来を案じました。そして「わが国を強国にするには、敵を知らなければならぬ。異国の事情を知らなければならぬ」という思いが、彼を駆り立てていたのです。同文久2年、藩は襄の海軍修行の成果を認め、備中松山藩がアメリカから購入した洋式帆船の操船指導を命じます。備中松山藩板倉家は、安中藩板倉家の本家にあたりました。江戸と玉島港を往復する洋式帆船の航海で、襄は船で外国に渡れることを肌身で感じます。

翌文久3年(1863)、襄はともに蘭学を学んだ菅沼総蔵から、アメリカでは大統領を選挙で決めることを聞いて衝撃を受けました。アメリカを自分の目で確かめたくなった襄に、菅沼は長崎で入手したという聖書の漢訳本を渡します。もちろん国禁の書ですが、襄は聖書の説く天地の創造主という考え方にまたも衝撃を受けました。この頃から、襄は蘭学から英学の研鑽へと切り替えます。
 

国禁を犯し、アメリカへ密航

元治元年(1864)、襄は大きな転機を迎えます。備中松山藩の帆船が箱館に向かうことを知ると、襄は便乗を頼みました。家族には箱館で英学を修行すると告げましたが、胸中密かに期するものがあります。すなわち国禁を犯しての、アメリカへの密航でした。

箱館に着くと、懐のさみしい襄はロシアの司祭ニコライの日本語教師となり、本心を打ち明けて、機を窺いました。ニコライは後に東京神田にニコライ堂を建てる人物です。やがて坂本龍馬の従兄・沢辺数馬や、英国人の商館に勤める福士宇之吉の協力を得て、6月に上海へ出航。上海でアメリカに向かうワイルド・ローバー号に乗ることができました。ローバー号の船長テーラーは、旅費のない襄を自分付のボーイにしてくれ、「ジョー」と呼びます。この「ジョー」から彼は襄と名乗ることになりました。

以後の襄は、出会う人々の善意に導かれて進んでいきます。 翌年の7月20日、ローバー号はボストン着。行くあてのない襄をテーラーは、ローバー号の船主・ハーディー夫妻に紹介しました。襄の学問への熱意を知った夫妻は支援を決め、襄をフィリップス・アカデミーに入学させます。やがて勉強を献身的に手伝ってくれる神学生との交流から、襄はキリスト教精神に感銘を覚え、慶応2年(1866)、ハーディー夫妻立会いのもと洗礼を受けます。

翌年、アカデミーを卒業すると、アーモスト大学に入学。明治3年(1870)に卒業して理学士の学位を取得しました。その間、日本で戊辰戦争が始まったことを知り、気をもみますが、「自分がアメリカに来た目的は、アメリカの文明を築いた精神を日本に伝えること」と考え、勉学に励みます。大学卒業後、襄はキリスト教を学問的に研究するために、アンドバー神学校に入学。明治5年(1872)には日本から来た岩倉使節団に頼まれて、使節団の通訳を務めました。この時、使節団とともに欧州を歴訪しています。

明治7年(1874)に神学校を卒業すると、アメリカン・ボード(海外伝導組織)の大会で、日本にキリスト教主義の大学設立を訴え、5000ドルの寄付の約束を得ました。この頃には、襄は帰国して教育者になる道を見出しています。同年に帰国する襄の胸には、キリスト教伝道のための学校というより、西洋の最新の学問と知識を学ぶ、キリスト教の精神に基づいた学校の姿がありました。

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帰国後、山本覚馬らの協力を得て同志社を設立 >

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