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源実朝~暗殺された鎌倉幕府3代将軍、悲運の生涯



2018年01月26日 公開

1月27日 This Day in History

鶴岡八幡宮
鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)
 

鶴岡八幡宮で源実朝が甥の公暁に暗殺される

今日は何の日 建保7年1月27日

建保7年1月27日(1219年2月13日)、鎌倉幕府3代将軍・源実朝が、鶴岡八幡宮で暗殺されました。犯人は兄・頼家の遺児・公暁でした。

実朝は建久3年(1192)、源頼朝と北条政子の次男に生まれました。幼名、千幡。乳母には政子の妹・阿波局が選ばれます。一方、10歳年上の兄・頼家の乳母(複数)は比企氏の一族が占めていました。実朝は将軍の息子として不自由なく成長します。

建久10年(1199)、頼朝が急死すると、兄・頼家が家督を継ぎ、2代目の鎌倉殿となりました。実朝、8歳の時のことです。しかし、頼家とその後ろ楯の比企氏が実権を握ることを恐れた北条氏は次々と謀略を仕掛け、まず頼朝が生前信頼した梶原景時と、それに与する城氏を滅ぼしました。建仁2年(1202)、頼家は2代将軍となりますが、翌年、急病に倒れ一時危篤状態となります。すると頼家が存命しているにもかかわらず、鎌倉から「頼家死去につき、千幡(実朝)が跡を継いだ。速やかに将軍職任命を請う」旨の連絡が都に届きました。

さらに鎌倉では、頼家の後ろ楯で、頼家の長男・一幡の外祖父である比企能員が北条時政によって謀殺され、比企一族が滅ぼされます。幼い一幡は母親が抱いて辛うじて脱出しました。病床でこの変事を知った頼家は激怒しますが、母親の政子の手で伊豆の修善寺に押し込められます。そして脱出した一幡は北条氏の手にかかって殺され、頼家もまた翌元久元年(1204)、入浴中を刺客に襲われて絶命しました。享年23。一方、鎌倉から虚偽の申請を受けていた朝廷は、前年の建仁3年(1203)に実朝を3代将軍に補任しました。実朝、12歳の時のことです。

その後も北条氏による策謀、粛清事件は続きます。元久2年(1205)には頼朝以来の重臣・畠山重忠が討たれます。また北条時政と後妻・牧の方は密かに実朝暗殺計画を練りますがこれが発覚。時政は修善寺に追われ、時政の息子で政子の弟・義時が執権職を継承します。こうした一連の政争に実朝は常に蚊帳の外に置かれており、実権のない将軍であることを嫌でも感じたことでしょう。

こうした中で、実朝は次第に都の公家文化に親しみを覚えるようになり、公家の坊門信清の娘を正室に迎え、和歌に熱中するようになります。血なまぐさい日々を嫌ってのことでしょうが、そんな武家の棟梁の姿に、御家人たちは失望を覚えたといいます。

建永元年(1206)、母親の政子の計らいで、実朝は亡兄頼家の遺児・善哉を猶子とします。7歳の善哉の乳母夫は三浦義村でした。5年後の建暦元年(1211)、善哉は鶴岡八幡宮寺別当のもとで出家し、公暁と称しました。

建保元年(1213)、侍所別当の和田義盛一族らの謀叛が露見したとして、和田一族が北条義時に討たれます(和田合戦)。これにより義時は侍所別当となり、幕府における権力はいよいよ大きくなっていきます。北条氏は、実朝に忠節を尽くす名目で次々と対抗勢力を滅ぼしていきましたが、公家風を好み、和歌に熱中し、『金塊和歌集』の編纂に力を入れる将軍は、都合の良い存在であったのかもしれません。

そんな実朝が、義時や側近の大江広元の諫言を退けて強行したのが、唐船の建造です。事の発端は、奈良東大寺を再建した宋の僧・陳和卿の実朝への拝謁でした。実朝に拝謁した陳は、はらはらと涙をこぼし、不審に思った実朝が訳を尋ねると、「将軍は宋の医王寺の長老の生まれ変わりです。私は門弟の一人でした」と語ったのです。 にわかには信じられない話ですが、実朝には思い当たることがありました。以前、夢の中で高僧から聞かされた話と同じだったのです。実朝は前世ゆかりの宋・医王寺を訪れることを思い立ち、陳に唐船建造を命じました。建保5年(1217)、船は完成し、海に曳き出されますが、しかし浮かぶことはなく、実朝の渡宋の夢も潰えます。

その後の実朝は、昇進を続けていきます。そこには、実朝を取り込もうとする後鳥羽上皇の目論見もあったといわれます。大江広元がそれを危惧して、しばらく昇進を見合わせることを進言すると、実朝は「源氏の正統は余で絶える。ならば官職を高め、家名を上げておきたい」と応えたといいます。自分の行く末を見切っていたのでしょうか。

建保6年(1218)、武士として初めて右大臣に就任した実朝は、翌建保7年1月27日、それを祝うべく雪の積もる中、鶴岡八幡宮に拝賀します。その帰途、境内で「親の仇はかく討つぞ」と叫ぶ公暁に襲われ、絶命しました。享年28。公暁もほどなく討たれ、ここに実朝の言葉通り、頼朝以来の源氏将軍家の流れは絶えることになります。なお太刀持ちをしていた北条義時は、途中で腹痛を訴え参列を離れ、難を逃れています。

公暁に実朝を討たせたのは、北条氏の専横を憎む公暁の乳母夫・三浦義村であるとも、後鳥羽上皇の意向とも、公暁の独断ともいわれ、はっきりしません。奪われた実朝の首は所在不明ですが、一説に秦野市の首塚がそれであるといわれます。



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