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斎藤隆夫と「反軍演説」~政府・軍部への堂々たる論陣

2019年02月02日 公開

2月2日 This Day in History

斎藤隆夫
 

立憲民政党の斎藤隆夫が「支那事変処理に関する質問演説」

今日は何の日 昭和15年(1940)2月2日

昭和15年(1940)2月2日、第75回帝国議会の衆議院本会議において、立憲民政党の斎藤隆夫が、「支那事変処理に関する質問演説」を行ないました。支那事変(日中戦争)をどのようにして終えるのかを質したもので、いわゆる「反軍演説」として知られます。 

昭和12年(1937)7月の盧溝橋事件を発端とする支那事変が始まってから2年半。日本、中華民国(蒋介石政権)ともに宣戦布告を行なわないまま、事態は中国大陸全土を巻き込む戦争状態となっていました。昭和12年12月には、日本軍は国民政府の首都・南京を陥落させますが、蒋介石は国民政府を内陸部の重慶に移し、徹底抗戦の構えを見せ、事変は長期化の様相を呈します。 これに対し、早期終結を目指す参謀本部は長期化に反対。駐華ドイツ大使トラウトマンによる和平工作も模索され、蒋介石も講和に前向きな姿勢を見せていたといわれます。

ところがその機運を壊したのが、近衛文麿首相でした。強硬姿勢に転じた近衛は和平条件のハードルを上げたため蒋介石も態度を硬化、すると近衛内閣は蒋政権との交渉を打ち切り、「帝国政府は爾後、国民政府を対手とせず」という声明を出すに至るのです。本来、日本も蒋介石政権も、最も警戒すべきはソビエト連邦であり、共産主義勢力でした。ところが近衛内閣の交渉打ち切りで、蒋介石との歩み寄りの道は閉ざされ、蒋は張学良を仲介とした共産党との共同戦線で日本に対していくことになるのです。

こうした状況を受けて行なわれたのが、昭和15年2月2日の衆議院本会議における斎藤隆夫の「支那事変処理に関する質問演説」でした。当時の米内光政内閣は、前近衛政権の方針(昭和13年12月22日の近衛声明)を引き継ぐという立場で、斎藤は今に至るまでの国民の多大な犠牲に触れた上で、本当にそれを実行する気があるのか問います。

近衛声明とは、具体的には
1.中国の独立主権を尊重
2.領土・償金を要求しない
3.日本は経済上の独占をやらない
4.第三国の権益の制限を中国に要求しない
5.防共地域である内蒙古を除く地域からの日本軍の撤兵
というものでした。

ところが政府は事変開始から1年半も経ってから、事変処理について「東亜新秩序の建設」と言い始めました。しかもその原理原則は「支那王道の理想」「八紘一宇の皇謨」であるとし、眼前の利益よりも東洋平和、世界平和のために戦う「聖戦」とも言い始めています。

斎藤は「いやしくも国家の運命を担う政治家であれば、理想にとらわれず国家競争の現実に即して国策を立てなければ、国家の将来を誤る」「現実に即さない国策は、一種の空想に過ぎない」と述べ、近衛声明の妥当性を批判しました。

「重慶政府が屈服しない限り、日本軍はあくまでその討伐に向かい、汪兆銘(日本政府が交渉相手とする南京国民政府)は、日本軍に便乗して戦う。これが軍部の方針であろう」

「一方で蒋介石討伐、一方で汪政権の援助という二つの重荷を背負うことは、日本の国力から考えてどうなのか」

「この2年半で3度も内閣が辞職している。こんなことで国難にあたれるのか。それは政府首脳部に責任の観念が欠けているからだ。身を以て国に尽くす熱意が足りないのだ。立憲の大義を忘れ、国論の趨勢を無視し、国民的支持を欠いているから、何ごとにも所信を断行する決意も勇気もない。姑息な帳尻合わせの政治では失敗するのは当たり前だ」

「我々は遡って先輩政治家を追想する必要がある。日清戦争はどうであったか。日清戦争は伊藤博文内閣が始めて、伊藤内閣が解決した。日露戦争は桂太郎内閣が始めて、桂内閣が解決した。日比谷焼き討ち事件も起こったが、桂公は一身に国家の責任を背負い、解決した後に身を退かれた。 伊藤公といい、桂公といい、国に尽くす先輩政治家は斯くの如きである。しかるに事変以来の内閣は何であるか。外で10万の将兵が斃れているにもかかわらず、内で事変の始末をつけるべき内閣は、次々に輔弼の重責を誤って辞職する。内閣は辞職すれば責任を取ったことになるかもしれないが、事変は解決せず、護国の英霊は蘇らないのである」

斎藤はこの演説以前にも、「粛軍演説」というものを行なって、軍部や右翼から圧力をかけられていましたが、それに屈せず、こうした内容を政府・軍部を前に堂々と言ってのけました。

これに対し衆議院議長は書記官長に、軍部批判にあたる全体の3分の2を削除させます。さらに翌日、斎藤の所属する民政党は斎藤に離党を勧告、斎藤は党に迷惑をかけるのであればと承諾しました。後日、斎藤は懲罰委員会にかけられますが、懲罰理由のすべてを論破してのけ、委員たちを沈黙させます。

そして3月7日の衆議院本会議で、斎藤の議員除名の投票が行なわれ、賛成296名、空票144名、反対7名で斎藤の衆議院議員除名が決まりました。しかし斎藤は、昭和17年(1942)の総選挙で、あらゆる妨害を撥ね退けて兵庫県5区でトップ当選し、返り咲くことになります。 当時、こんな政治家もいたことを知っておきたいところです。



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