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本能寺で討たれた信長の首は富士山麓に葬られた!?~西山本門寺にある首塚の謎

2018年02月26日 公開
2022年12月07日 更新

楠戸義昭(歴史作家)

西山本門寺、信長首塚
織田信長公の首塚(静岡県富士宮市、西山本門寺)
 

なぜ、信長の首塚が富士山麓にあるのか?

戦国時代、最も衝撃的といわれる本能寺の変―それだけに多くの謎を秘める。墓もまた様々な謎に包まれている。

天正10年(1582)6月2日の未明、京都の本能寺に宿をとる織田信長を家臣の明智光秀が1万3千の兵をもって襲撃し、この謀叛によって戦国切っての英傑は49歳で命を絶った。その衝撃の大きさからであろう、信長の子供たちはこぞって父の墓を建立し、天下を引き継いだ秀吉もまた葬儀を行い、墓もつくった。さらに信長の乳母などがその菩提を弔うために、それぞれの地に信長の供養塔を建てている。

時に本能寺が襲われた際、堂宇は炎につつまれた。太田牛一の「信長公記」は、信長は「すでに御殿に火が懸かり、焼け広がって来たので、最後の姿を敵に見せまいとしてか、殿中の奥深く入って、内側から納戸の口を締めて、無情にも御腹を召された」と記す。

宣教師のルイス・フロイスがイエズス会総長に宛てた「1582年度日本年報追加」(11月5日付)によれば「信長は手と顔を洗い終えて手拭いで清めていたところであり、兵士たちはすぐさま彼の背に矢を射かけた。信長はこれを引き抜き、長刀すなわち鎌に似た柄の長い武器を手にしばらく戦ったが、一方の腕に銃弾を受けたので自室に退いて戸を閉めた。彼は切腹したと言う者も、邸に放火して死んだと言う者もあるが、我らが知っているのは、かつては声はおろかその名(を聞く)だけで諸人を畏怖させていた人が毛髪一本残すことなく灰燼に帰したことである」という。

キリシタン教会堂である京都の南蛮寺と本能寺は、同じ蛸薬師通りに約2百メートル隔ててあった。

フロイスはこの時、京都にいなかったが、カリオンという宣教師がいて、早朝ミサをするため、衣服を着替えていた時に、数人のキリシタンが飛び込んできて、本能寺の騒動を知らせたという。「言経卿記」によれば、変の勃発は午前6時頃だったという。

そして小瀬甫庵撰「信長記」は、「その後、光秀は御首を求めたが発見できなかったので、非常に不思議がり、もしかしたら生きているのではないかと甚だしく恐れ、士卒に命じて入念に探させたが、骸骨と思しきものさえ一切見つからなかった」と書いている。

見つからない信長の遺体の謎、それは炎に焼かれて、誰とも識別できない白骨になってしまったからであろうか。その骨の不思議を語る墓がある。

JR身延線に特急列車が通過する芝川駅がある。富士駅から各駅停車で約35分、そこからタクシーで15分ほど走ると、富士山から押し出された溶岩でできた台地に、西山富士山本門寺(静岡県富士宮市西山)がある。老杉の緑に覆われた境内は3万5千坪(約11万5千5百平方メートル)と広く、黒門を潜って参道を5百メートルほど進んだ本堂の裏手に信長の首塚がある。

大きな謎は京都から4百キロ近くも離れた富士山の麓に、なぜ信長の首塚があるのかということである。

まず信長が死ぬ前日の様子を見てみよう。信長が上洛したことで、近衛前久、甘露寺経元、勧修寺晴豊をはじめ多くの公家衆が本能寺に挨拶に訪れた。これに博多の豪商・島井宗室が茶会の主客に招かれていて、町衆40人を含めて約60人で茶会が催された。信長はその参加者たちに九十九茄子茶入、白天目茶碗、高麗茶碗、青磁花入、牧谿の絵など38品の名品を並べて見せたという。この後、島井宗室と親しく話し合い、宗室はそのまま本能寺に泊った。

そして夜10時頃から、信長自身初段の腕前だったとされる囲碁の勝負を観戦した。

日蓮宗の名僧である本行院日海は、別の名を本因坊算砂と言った。本因坊第一世であるこの算砂から信長は教えを受けていたが、この算砂と本能寺の鹿塩利賢が対局したのだが、盤上に劫が3カ所もできる非常に珍しい三劫ができて勝負がつかず、引き分けに終わり、算砂はそのまま本能寺に泊った。そして光秀の謀叛に遭遇した。

まず宗室だが、光秀の兵に囲まれる中、茶会で披露された空海(弘法大師)の真筆「千字文の軸」をとっさに床の間から外して本能寺を脱出し、そのまま博多に持ち帰ったといわれる。このため披露の茶器などが、ことごとく火災で消滅してしまうが、「千字文の軸」だけは残った。

そしてこの囲碁の一局が、富士山本門寺に伝わる信長の首塚の謂われとなる。

早朝、光秀謀反軍の襲撃を算砂すなわち日海は知る。たちまち本能寺は戦いの修羅場となり、堂宇に火がかかって燃え上がる。その日海の側には原志摩守宗安がいた。

彼は信長に従う武士で、父胤重と兄孫八郎清安は変の最中で討ち死にした。その宗安に日海は、自刃した信長の首を直ちに持ち出して、富士山本門寺に葬るよう命じたのである。

なぜなら富士山本門寺の当時の住職は日順上人で、日海の弟子であった。しかも日順は原家の出身だった。

宗安は信長の首に加えて、従者に父と兄の首も持たせて、無事に本能寺を脱出し、夜を日に継いで富士山本門寺に至ったのだ。

日順は信長を手厚く供養した。富士山本門寺の過去帳には「惣見院信長、明智のために刺誅」と書かれている。

信長の首塚は本堂(かつての客殿)の斜め後ろ、戌亥の方角(北西)に柊を墓標にして、土饅頭を築いて墓とした。

信長の首は今も約3メートル下の土中に眠っているとされる。

本因坊家の始祖で、後に徳川家康に江戸に招かれもした算砂が、本能寺の変の時、24歳の若さで、信長の首を光秀方の目を逃れて持ち出させ、富士山の麓に葬らせたという逸話が事実であれば、さすが勝負師の才覚といえる。

ところで本門寺の墓標となった柊は、大きく成長して昭和31年(1956)に静岡県の天然記念物に指定された。現在、樹齢4百~5百年と診断されており、信長の死期と一致する。

柊を植えたのは、葉に棘があって人が近づきづらいこと、また節分の夜に柊を家の入口にさして邪気を払う習慣が昔からあるが、魔が入り込まないように柊を墓標代わりにしたとみられる。しかし柊の古木は最近、急速に樹勢が衰えたため、大枝を切り落として、再生治療が行われた結果、新しい枝葉が順調に育ってきているという。

なぜ富士山の麓に信長の首塚があるのか、その謎は解けたが、果たして柊に守られる首塚に本当に信長の首が埋まっているのか、その謎は残ったままである。
 

※本記事は、楠戸義昭著『戦国武将「お墓」でわかる意外な真実』(PHP文庫)より、一部を抜粋編集したものです。

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