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山田方谷~藩政再建・改革の要諦は「義」である

2018年02月21日 公開
2022年07月05日 更新

2月21日 This Day in History

備中松山城
 

備中松山藩・山田方谷が生まれる

今日は何の日 文化2年2月21日

文化2年2月21日(1805年3月21日)、山田方谷が生まれました。幕末の陽明学者で河井継之助の師匠、また備中松山藩の藩政改革を成功させたことでも知られます。

山田方谷は文化2年、農家の五朗吉の息子として、備中松山藩領西方村(現在の岡山県高梁市中井町西方)に生まれました。通称、安五郎。生家は、もともとは武家であったといいます。5歳の時より、儒学者の丸川松隠に就いてその私塾で朱子学を学びます。21歳の文政8年(1825)にはその名が藩主・板倉勝職の耳に入り、藩から奨学金が支給されることになりました。藩の学問所への出入りも許されたといいます。

師の丸川の勧めもあり、文政10年(1827)と12年(1829)の2度、上洛して寺島白鹿に学びました。帰国すると、藩より名字帯刀を許され士籍に列し、藩校・有終館の会頭(教授)に抜擢されます。破格の厚遇というべきでしょう。しかし翌天保元年(1830)暮に有終館会頭を辞め、天保2年(1831)、三度目の上洛をして寺島白鹿に入門。そしてこの時、方谷は陽明学に出会いました。王陽明の『伝習録』から、朱子学と陽明学を比較しつつ学び、それぞれの長短を見極め、次第に陽明学に傾倒します。

陽明学とは、王陽明が主唱した考え方で、大切なのは理論を学んで議論に明け暮れることではなく、行動であるとし、「知行合一」を説いたものです。ただ得心が浅く、己の欲得にかられると誤った行動になりやすいという危険性も孕んでいました。それほど行動を重んじる学問です。

天保5年(1834)、30歳の時、藩から許されて江戸に遊学しました。彼は佐藤一斎の門を叩きます。当時の一斎は、表向きは朱子学を教えていましたが、実は陽明学の造詣が深く、「東の一斎、西の大塩(平八郎)」などと称されるほどでした。

この一斎の弟子で「一斎門下の二傑」と呼ばれたのが、陽明学の方谷と、朱子学の佐久間象山であったといわれます。二人はよく塾内で白熱した議論を交わしましたが、象山はどうしても方谷に勝つことができなかったと伝わります。

天保7年(1836)、一斎の塾を退いて帰国。その際、師の一斎から「尽己(じんこ)」の書を贈られました。尽己とは、物事に己の全てを尽くす、という意味です。帰国した方谷は有終館学頭となり、『理財論』『擬対策』などを著わしました。

嘉永2年(1849)、45歳の方谷は、藩主に就任した勝静より松山藩の元締役兼吟味役に任じられ、藩政改革に取り組みます。当時、備中松山藩の表高は5万石ですが、実際は1万9000石ほどで、借入金は10万両に及んでいました。利息だけで年間9000両にも及びます。そこで方谷は「上下節約」「負債整理」「産業振興」「紙幣刷新」「士民撫育」「文武奨励」の6つの柱を掲げて、改革に取り組みました。

まず負債整理に取りかかり、藩が借金をしている大坂の商人のもとに赴くと、緻密な財政再建計画を示して、借金10万両の返済猶予を認めさせます。次に備中特産の砂鉄を活かして「備中鍬」を生み出し、これがヒット商品となって大きな収益を上げました。また楮(こうぞ)、茶、煙草、素麺などの特産品を、洋式船を購入して直接江戸に運んで販売し、成功します。さらに通常価格で藩札を交換し、回収した多額の藩札を河原で焼却して、藩札の信用を高めました。こうした努力によって松山藩の収入は20万石に匹敵するといわれるまでになり、僅か8年で10万両の借金を完済しただけでなく、10万両の余財を残すに至ったのです。

方谷は改革の要諦は「義である」とします。

「掟や約束を必ず守ることも義。この後、どのような国づくりをするのかを明らかにすることも義の一つである。財貨を求めることは、利益つまり利であって義ではない。倹約、倹約というがただの倹約では意味がありません。義あっての倹約でなければならない」

農民や商人に対しても、約束をきちんと果たし、誰かが損をして自分たちが得をするのではなく、誰もが誇りをもって日々の仕事に向かい、国づくりに貢献していくことを目指したように感じられます。

そんな方谷を、越後長岡藩の河井継之助が訪れ、師事したのは安政6年(1859)のことでした。河井が継之助のもとにいたのは一年余りですが、言行一致の生き方と藩政改革の成果に瞠目し、方谷を生涯の師と仰ぎます。

その後、藩主・勝静が幕府老中となり、方谷は求められて何度も相談役を務めることになりますが、毎回、短期間でその職務を辞しています。戊辰戦争の際には、旧幕府老中として不在の藩主に代わり、新政府軍に無血開城をして、無駄な血を流しませんでした。

維新後は新政府への出仕をたびたび求められますが、断り続け、岡山の閑谷学校の再建や、私塾の各地への設置など教育に力を入れて、明治10年(1877)に没しました。享年73。今後、もう少し脚光を浴びるべき人物であると感じます。

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