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西郷小兵衛~西南戦争で戦死した西郷隆盛の末弟

2018年02月27日 公開
2023年03月09日 更新

『歴史街道』編集部

桜島
 

西郷小兵衛が高瀬川南の戦いで戦死

今日は何の日 明治10年(1877)2月27日

明治10年(1877)2月27日、西郷小兵衛が西南戦争で戦死しました。西郷隆盛の末弟で性格は隆盛によく似ており、思慮深く、戦争前の評定でも的確な戦略を示した人物です。

西郷小兵衛は弘化4年(1847)、鹿児島城下の加治屋町に西郷吉兵衛の4男として生まれました。幼名、彦吉。諱は隆雄(たかかつ)。長兄は吉之助(隆盛)、次兄は吉二郎(隆広)、三兄は信吾(従道)です。長兄の隆盛とは19歳離れていました。

慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦いには22歳で参加、さらに会津若松城包囲戦にも参加します。翌明治2年(1869)、鹿児島常備隊が編成されると、大隊中の小隊分隊長となりますが、明治4年(1871)には職を辞し、長兄隆盛の指示で陽明学者・春日潜庵の塾に学びました。しかし読書は好まず、そのくせ討論となると堂々と弁じ立て、その右に出る者はいなかったといわれます。その後、薩摩の加世田郷の副戸長に就任しました。

明治10年(1877)1月、政府による西郷暗殺(刺殺)計画と、それに連動する私学校生徒による火薬庫襲撃事件が起こると、小兵衛は小根占に滞在していた隆盛のもとに、急使として赴きました。そして2月6日に私学校本部において行なわれた大評定の場において、小兵衛は次のように述べたと小林清親の錦絵「鹿児島英雄伝」の説明にあります。

「このたびの一挙は孤軍を遠く懸けて天下の大兵に敵するという企てであれば、人を惑わせ実体を匿し、敵に知らさざるを要とする。ゆえに、熊本を取ろうとするならば、まず1、2000の兵士をもって長崎港を陥し、官軍進撃の便路を断ち、上国の通信を拒み、金穀弾薬の資金を十分にするべし。そのとき敵は必ず熊本鎮台救援の師を出すであろう。我軍はその兵の出るのを待ち、すぐに川尻より鎮城を抜けば、二筑(筑前・筑後)両豊(豊前・豊後)の士民は響きの如く応じ、血を塗らずして九州は容易に定まるべし」

あるいは、三道に分かれての分進を説き、「一軍は熊本城を攻め、一軍は日向より豊後に出で、沿海の形勝を扼し、一軍は艦船に乗じて急に長崎港を奪うべし」と説いたともいいます。

いずれにせよ九州を制するための必勝の策というべきものでした。 しかし評定は、策を弄せずに大軍をもって堂々と北上するという案に決し、小兵衛の策は容れられませんでした。薩軍が何を目指していたのか、そして西郷の意図はどこにあったのか、今も議論の分かれるところです。それについては、今回は触れないでおきます。

2月13日、小兵衛は薩軍一番大隊一番小隊長に任じられ、篠原国幹の補佐役となります。同隊は2月15日、他の隊に先駆けて鹿児島を進発しました。2月22日、本営における軍議で、主流の熊本城強襲案に対し、小兵衛は一部をもって小倉へ進撃させる分進案を主張して、容れられます。しかし政府軍の南下が一足早く始まっていたため、分進隊は小倉に達する前に交戦状態となり、小倉陥落はなりませんでした。

そして2月27日、小兵衛は高瀬川南の戦い(現在の熊本県玉名市)において、敵弾を受けて戦死しました。絶命する寸前、小兵衛は「今や私は、兄に先立って死のうとしている。どうかその罪を許してくださいと伝えてほしい」と言い残しました。享年31。

西南戦争では沈黙していることの多かった隆盛でしたが、最も可愛がっていた弟の最期の言葉に接した時は、号泣したと伝わります。

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