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武田信廉~信玄の影武者をつとめた男の最期

2018年03月07日 公開

歴史街道編集部

騎馬武者
 

織田軍の残党狩りにより、武田信廉が討死

今日は何の日 天正10年3月7日

天正10年3月7日(1582年3月30日)、武田信廉が織田軍の残党狩りで討たれました。武田信玄の弟で、逍遥軒(しょうようけん)の号で知られます。

武田信廉といえば、黒澤明監督の映画「影武者」で山崎努さんの好演を思い出すという人も少なくないかもしれません。映画ではなかなかの謀将ぶりでしたが、特にラストシーンの長篠で、武田軍が次々に銃弾に倒れていくのを、すべて諦めきったような死相を感じさせる表情で見つめる姿は印象的でしたが、はたして実像はどうだったのでしょうか。

信玄、典厩(てんきゅう)信繁の同母弟の信廉は、第四次川中島合戦で兄の信繁が討死すると、親族衆筆頭になりました。武田二十四将の一人にも数えられます。また絵を描くのに長け、現存する父の「武田信虎像」や母の「信虎夫人像」は信廉が描いたものです。和歌や漢詩なども熱心に学び、文人的素養がありました。

一方で容姿が信玄とよく似ていたため、信玄の影武者を務め、信玄の側近たちですら見分けがつかなかったともいわれます。そのため元亀4年(1573)、信玄が西上作戦途中で病没すると、信廉が信玄に成りすまして武田軍を無事に甲斐に帰還させました。さらに北条家の使者が信玄の健在を探りに来た際も、信廉が応対して見抜かれなかったといわれます。

しかし、信玄の後継者となった勝頼とは反りが合わず、長篠の合戦では穴山信君とともに早々に退却して武田軍に綻びを作り、また織田軍による武田征伐が始まると、ほとんど抵抗することなく居城の大島城を放棄し、甲斐に引き上げました。

残党狩りで信廉を見つけた織田軍の森長可配下の者たちは、信廉に名馬を見せようと偽って屋外に誘い出し、騙し討ちにしたと伝わります。享年51。

武功はほとんどない信廉ですが、もし信繁などが健在であれば、親族筆頭になることもなく、好きな絵を描いて生涯を送っていたのかもしれません。

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