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鍋島直茂~龍造寺家から独立、佐賀藩祖となった男の才覚

2018年03月12日 公開

歴史街道編集部

鍋島家紋
 

今日は何の日 天文7年3月13日 鍋島直茂が生まれる

直茂、今山合戦で武名を上げる

天文7年3月13日(1538年4月12日)、鍋島直茂が生まれました。龍造寺家の部将で龍造寺隆信を支え、また佐賀鍋島藩の藩祖(初代ではない)として知られます。

鍋島氏の出自は諸説あり、一説に佐々木源氏の長岡経秀が、山城国から肥前国小城の千葉氏を頼って下向し、肥前国鍋島村に住んだことから、鍋島姓を用いたともいわれます。

直茂は天文7年、鍋島清房の次男として肥前国佐嘉郡本庄村に生まれました。幼名、彦法師。後に飛騨守信生。母親は龍造寺家純の娘です。父・清房は龍造寺家純の父・家兼に仕え、その存在は龍造寺家中においても大きなものでした。

直茂の武勇が知られたのは元亀元年(1570)、33歳の時の今山合戦です。6万余りの大友軍が肥前に侵攻し、佐嘉城は風前の灯火でした。この時、今山の大友親貞本陣に、僅か700の手勢で夜襲をかけたのが直茂です。そして油断していた親貞を討ち取り、大友勢を敗走させました。この今山合戦の勝利をきっかけに、龍造寺氏は躍進します。
 

沖田畷で龍造寺隆信が討死

龍造寺家兼亡き後、跡を継いだのは曾孫の龍造寺隆信でした。隆信は直茂を右腕として、大友氏の勢力圏であった筑前、筑後、肥後を蚕食し、直茂は筑後・肥後の押さえとして筑後酒見城に入ります。 隆信は天正5年(1577)までに大村純忠を降し、天正6年(1578)には有馬晴信を降して肥前を統一すると、家督を嫡男の政家に譲りました。そして直茂は政家の後見役となります。とはいえ、政治・軍事の実権は依然、隆信が握っていました。

天正12年(1584)、島津と結んで離反した島原の有馬晴信を討つべく、隆信は討伐軍を発します。この時、直茂は「島津は戦巧者、猪突は禁物と存じます。まずはそれがしが先陣を務め、敵状を探りますゆえ、ご出馬はそれからになさいませ」と諫言しますが、数を恃む隆信は一笑に付しました。かくして沖田畷の合戦を迎えます。

この時、隆信が率いたのは一説に6万。対する有馬・島津連合軍は多く見積もっても8000。圧倒的な兵力差です。ところが龍造寺軍は、島津家久による「釣り野伏」にまんまとかかり、壊滅的打撃を受けるだけでなく、主将の隆信が討死しました。直茂も、戦場から脱出するのがやっとだったといいます。

勢いに乗る島津軍は隆信の首を持って佐嘉城の開城を迫りますが、直茂は首の受け取りを拒みました。そして「名門龍造寺家に降伏の二文字はない。早や攻めて来られよ。肥前武士の意地をお目にかける」と啖呵を切ります。この直茂の闘志の高さに、島津は軍を返しました。
 

龍造寺家の執政として太閤秀吉に接近

隆信亡き後、直茂は隆信の子・政家を補佐し、事実上の龍造寺家の舵取り役である執政を務めます。ところが凡庸な政家は、直茂の進言を無私して、南から圧迫する島津氏に屈し、その麾下に入ってしまいました。強い危機感を覚えた直茂は、密かに関白豊臣秀吉に使者を送り、次のように言上させます。

「わが龍造寺は島津に屈し、今は心ならずも島津の下についておりますが、一刻も早き殿下の九州入りを望んでおります。その折にはぜひ、我等に先陣を申し付けられますよう」

天正14年(1586)、直茂の必死の諫言によって龍造寺政家は島津と手を切り、秀吉軍の一翼として肥後北部に進攻しました。秀吉が赤間関(現在の下関)に到着したのは、翌天正15年(1587)のことです。秀吉は直茂の拝謁を許すと、一連の働きを高く評価しました。

同年、島津が秀吉の軍門に降ると、秀吉は直茂を独立した大名に取り立てるとともに、龍造寺政家に代わって国政を担うよう命じます。ここに直茂が龍造寺家の実権を握ることになりました。
 

直茂の死と鍋島化け猫騒動

その後、朝鮮出兵の折も直茂が龍造寺軍を率いて戦います。 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは息子の勝茂が当初、西軍として参加しますが、直茂は勝茂を戦線離脱させるとともに、小早川秀包の久留米城、立花宗茂の柳川城など西軍方の城を攻略して、徳川家康の心証を良くするよう努めました。その結果、所領は安堵されます。

龍造寺政家が隠居すると、政家の息子・高房が幕府に対し、実権を鍋島から龍造寺に戻すようかけあいました。しかし幕府はこれを退け、高房は直茂に恨みを抱いて憤死したといわれます。

元和4年(1618)、直茂は耳に腫瘍ができて、激痛に苦しみながら没しました。享年81。その死に方から、高房の祟りではないかと噂され、そうした伝聞をもとに後に「鍋島化け猫騒動」が生まれることになります。

もっとも直茂は、龍造寺氏に遠慮して藩主の座には就いていません。佐賀藩の初代藩主は息子の勝茂であり、直茂は「藩祖」と呼ばれることになりました。



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